「雪江、キスしましょうよ」

 肩を揺すられ、ゆっくりと目蓋を持ちあげた。ぼやける視界の端で白い夫が満面の笑みで顔を覗き込んでいる。頭がぼんやりとして、頭が追い付かない。雪江は枕に髪を散らしたままぼんやりと近づく唇を見上げた。

「なにやってんだテメェ」

 と、その時横から伸びて来た腕が白い男の顔面へ向かう。パシッと受け止める音がして、ようやく雪江は事の事態を把握した。

「鬼灯様…?」
「はい」
「ここにいますよ」

 まずは右、寝ぼけた声で短く返事を返したのは見慣れた鬼灯。にこにこと笑いながら答えたのは左の白い鬼灯。
 二人に囲まれた状態の彼女は声にならない悲鳴を上げて布団へ潜り込んだ。ああ、そうだった。昨晩この白い男が突然現れたのだった。

 白い鬼灯は茄子が白澤と共に創りだした鬼灯の分身体である。彼らの悪戯心と色を塗り忘れたとかの理由で白く、笑顔の絶えない鬼灯は見ているだけで鳥肌が立つほどに不気味だ。しかもこの白い夫は愛情を隠そうともしない。昨晩の内に子供たちの前で唇を奪われたトラウマが再発して雪江は体を丸めた。

「可哀想に雪江…まだ眠いんですね」
「ひっ」

 すると背中に暖かい感触がして布団越しに抱きしめられる。優しすぎる声色と抱き寄せられた方向から相手はあの白い鬼灯であると分かった。

「勝手に人の妻にひっつかないでいただけますか」

 今度は右に引き寄せられる。厚い胸板に顔面を押しつけられて息が苦しい。思わず布団から顔を出せば見えた光景に雪江はまたもや声にならない悲鳴を上げた。
 般若の形相で睨みつける鬼灯と、笑顔ではあるが目の笑っていない白い鬼灯。二人に挟まれた雪江はまさに蛇に睨まれた蛙である。まあ、二人の視線は互いに向いていて雪江に向けられた訳ではないのだが。

「私貴方の分身体ですよ?よって雪江は私の妻でもあると言う事です」
「雪江は私だけの妻ですよ」
「狭量は嫌われますよ」
「そちらこそ都合の良い頭ですね」

 もう嫌だ、朝食の準備もあるのだし今すぐにここを抜け出そう。そうしよう。
 睨みあっている二人の視界に入らないようにと気をつけながら布団から這い出て、雪江はようやく安堵の息をつく。このまま襖を開けて廊下を出れば自由の身。希望が見えた時だった。

「どこへ行くんです?」
「きゃあ!」

 希望が絶望へ塗り替えられる。背後から迫った腕は瞬く間に雪江の体を抱きこんだ。背中に圧し掛かられて、成す術もなく畳へ倒れ込んだ。彼女を押さえこむ不埒な腕はそのまま彼女の夜着のあわせへと忍び込もうとしていた。
 このままでは色々と危険だ。サアと血の気が引く思いがして雪江はもがいた。けれど相手はあの夫の分身体。どんなに身を捩ろうとすぐに押さえつけられてしまう。しかも中途半端にもがいたせいで向き合う形にされてしまい、いよいよ万事休すだ。
 近づく顔に顔を逸らして耐える。しかし何時まで経ってもあの感触はなく、恐る恐ると視線を戻せば、白い鬼灯の肩に食い込む白い手が見えた。

「空気の読めない男ですねえ」
「読めなくて結構。いいから早く退けなさい。さもなくばこの肩折りますよ」
「はいはい」

 肩を竦めて白い鬼灯は抵抗する事もなく雪江の上から退いた。自由になった体を起こせば、腕を引かれて鬼灯の背中に隠される。
 さすがにもう恥ずかしいだとか怖いとか言っていられない。鬼灯の背中にしがみ付けば、胸元を掴む指先を強く握りしめられた。痛いくらいだけれど今はこれに安心する。ほっと息をつけば、視界の端で見える白い鬼灯が不快気に眉を顰めた。

「三日間くらい私に独占させてくれてもいいでしょう」
「私を狭量だと言ったのは貴方でしょう。それに雪江が怯えているんです、あまり無暗に近づかないでくださいますか」
「そうなのですか雪江?」

 眉を顰めた不快な顔から一変して眉を下げて切なげに呼びかける白い鬼灯に雪江の胸が痛んだ。なんだかとても悪い事をしてしまった気がして、慌てて首を横に振る。
 しかしそれがいけなかった。鬼灯が怒り顔で口を開くよりも先に白い男が口を開く。にっこりと笑って実に嬉しそうに。

「ほら、雪江は私も愛してくれるようですよ」

 ああ、やってしまったと気がついたのは鬼灯がキレて白い自分を引きずって家を飛び出してすぐ。残された雪江は着乱れた夜着を直す気力もなくへなへなとその場に座り込むと顔面を顔で覆った。
 白い夫が消えるまで後二日。きっと休まる時間はないだろう。

150525