その日は綺麗な月が見えていた。地獄の暗闇を照らす光はきっと桃源郷にいるあの神獣が明日の事を考えて無意識に神力を使ったからに違いない。
 少しばかり寂しそうな母との談笑を終えて喜子は静かな廊下を歩いていた。向かうのは、縁側。兄が幼い頃から大事に育てた金魚草の子供たちが揺れる庭に面したそこに彼女の父親はこちら側に背を向けて座っていた。

「お父さん」

 大きな背中だ。長い髪を肩から前へ垂らしてるから特にそう思う。そっと呼びかけて後ろに膝をつく。首だけをこちらへ向けた鬼灯はいつもの冷静な色を失わぬ瞳で娘を見据えて彼女の名前を呼んだ。

「その、挨拶したくって」
「…」
「今まで大事に育ててくださり、ありがとうございました」

 明日、喜子は桃源郷の神獣の元へと嫁ぐ。両親なみの紆余曲折を経て、ようやく漕ぎつけた婚姻を父親が良く思っていない事は知っている。
 だから祝ってほしいとは口が裂けても言えない。けれどこれだけは言いたくて彼女はワザとらしく姿を消した父親を探し出し、三つ指を立てて深々と頭を垂れた。
 きっと鬼灯はこのまま何も言わずに横を通り過ぎて行ってしまうだろう。一抹の寂しさに胸を痛めながら喜子は唇を噛む。すると白く長い指先が彼女の頬へと触れ、そのまま顎を持ちあげられる。

「駄目ですよ、明日嫁ぐ花嫁が傷をつけては」

 月明かりに照らされてただでさえ白い父親の肌が青白く映った。婿に良く似た顔立ちでゆっくりと唇を動かしながら触れる指先に目頭が熱くなる。
 幼い頃からお父さんにこうして触ってもらうのが大好きだった。忙しくってたまにしか遊んでくれないお父さん。それでも言い尽くせないほどの愛情をくれた大事な父親。

「寂しい、です」

 幼い頃に手を繋いで歩いた記憶が、一緒に眠った記憶が、初めて頬を叩かれた時の記憶が甦っては喉を苦しくさせる。
 嗚咽混じりに想いを口にすれば鬼灯は「そうですか」と静かに答えた。それがまた父らしくって、喜子は目から涙を流して言葉を紡いだ。

「お父さん、我儘を言ってもいいですか?」
「どうぞ、何でも言ってごらんなさい」
「抱っこ…してください」

 金魚草の尾びれが跳ねる音も虫の鳴き声も、母親の食器を洗う音も全てが一瞬、消えた。そっと頬から離れた指先が元の位置へ戻り、ゆるく両手を広げられる。

「いらっしゃい」

 喜子はその腕の中へ飛び込んだ。幼い頃のように膝に乗って首に腕を回して黒の生地に頬を擦りつける。前と違うのは、こうして泣いている事くらいだ。
 とんとんと一定のリズムで叩いてくれる掌に小さく嗚咽を漏らす。暖かい、掌に何度愛された事だろう。考えればきりがない。ずっとこうしていたい気持ちを押さえこんで少しだけ抱きつく力を緩める。そして掠れた声で今の思いの丈を伝えた。

「愛してます、お父さん」
「私も愛していますよ」

 月の綺麗な静かな夜、喜子は大好きな父親の元から飛び立った。



「なんて懐かしい夢を見たんです」
「貴方、喜子が嫁いだのは三日前ですよ」

 二人きりの食卓を囲み、次々とおかずを平らげる夫に雪江は箸を置いて呆れ眼を向けた。対して鬼灯は「そうでしたっけ?」なんて首を傾げている。
 わざとらしいその仕草にもうツッコミを入れる気力すらもなく、雪江は自分の食器を流しへ置くと鬼灯の背中へ回り落とされたままの黒髪を手に取った。サラサラとした黒髪は櫛を通す必要もない。

「寂しいですか?」
「そうですね、家が静かになりましたから」

 白米を口に含みながら鬼灯が答える。淡々とした声色は言葉とは真逆で思わず笑ってしまった。

「今日は団子にします?」
「ええ、それが一番邪魔にならないのでお願いします」
「承知しました」

 喜子が生まれる少し前から伸ばした黒髪は長い年月で子供たちの成長を見届けて来た。この髪を見ると様々な事を思い出す。慣れた手つきで一つに丸く纏めて、頭巾と紐で留めて雪江は彼の肩を叩いた。
 するとまだ食事が残っているにも関わらず鬼灯がこちらを振り返った。肩に置いた手を握り締められる。そして告げられたのは予想外の言葉だった。

「三人目作りますか」
「本気ですか?」
「もちろんです」
「まあ…」

 三人目なんて言われても、ついこの間娘が嫁いだばかりの今そんな事を考える余裕すたもない。しかし鬼灯は言葉通り真剣なのだろう。見つめてくるかがちの瞳は何時になく真剣だ。これは頷くまで離してもらえそうにない。肩を竦めて彼女は夫の頬へ顔を寄せた。

「新婚気分を味わう暇もありませんね」
「子供のいる幸せを味わってしまいましたから」

 指先が頬を撫でて、そのまま唇が重なる。吸いつくだけで離して、もう一度重ね合わせる。段々と熱くなる胸にもうこのまま…と思うも、時刻は既にいつもの出勤時間を過ぎてしまった。

「続きは次の休みと言う事で」
「はい、お仕事頑張ってくださいねお父さん」

 名残惜しさを残して体を離した鬼灯は妻の呼び方に眉を跳ねあげた。
 確かに私はお父さんですが、貴女の前では父親でなくただの男でありたいのですよ。なんて言えば、顔を赤くさせるだろう。千年前に比べていくらか強かになった妻への報復は、たった今下されようとしていた。

140525