「え、鬼灯くん今日もまた泊まり込みなの?」

 最近閻魔大王の補佐官に就任したばかりの鬼灯は地獄の改訂や突然の就任に揺れ動く獄卒への対応、亡者の裁判の手筈を覚えたりと連日連夜閻魔庁に泊まり込む生活が続いていた。元々勉強熱心で頑張りやではあったがここ最近は特にすごい。ちゃんと寝ているのかと心配になってしまうほど目の下には真黒な隈を拵えて髪も所々頭巾から飛び出してしまっているし何より、返事の声に覇気が感じられない。
 雪江は書類を手渡すとすぐに持ち場へ戻らねばならない事も忘れて、幼馴染兼同居人を心配そうに見降ろす。鬼灯はまた増えた書類に目を細めながら「はい…」と首を縦へ動かした。

「ですので夕飯は結構です。今日は貴女のお父さんも泊まり込みで仕事の日でしょう、ちゃんと戸締りをして寝るのですよ」
「え、ええ…それはもちろん…」

 重そうな腕で確認済みの判子を押す。確認済みの書類が山積みになっていると言うのに彼の横にはそれ以上の未確認の書類が置かれている。一枚一枚の書類は薄く、どれだけ読んで判子を押しても終わりそうにないそれに見ているこちらが精神を病んでしまいそうだと思った。これに耐えられるのはきっと鬼灯くらいだろう。
 けれどそんな彼も良く見れば目蓋は重そうだし心なしか顔色も悪く限界地点は既に突破済みと言った様子だ。正直、見ていられない。

「あの、鬼灯くん…ちょっと休んだら」
「休んでる暇はありません」
「でも具合も悪そうだし、このまま続けたら例え貴方でもミスしないとは限らないじゃない。そうなると後が大変だよ?」
「……」

 ぴたりと鬼灯の腕が止まり、何時にも増して険しい顔が見上げてくる。持ち前の気弱な性格で今にも怯んでしまいそうな自分を叱咤して彼女はきっと目を吊り上げた。気分はそう、八寒地獄にいる気の強い母である。

「少しは休みなさい!」



 限界と言うのは本当だった。最近は碌に眠れてもいないし食事だって満足に取れていない。彼女の言う事は正論で、逆らう術もなく仮眠室へと連れ込まれてしまった。
 硬い布団を手で確かめて不満そうな顔を見せながら雪江がベッドメイクをしてくれる。その後ろ姿を見ていると、ようやく眠れるという安心感からかあれだけ張りつめていた気持ちも緩んでしまって、無意識のうちに体が動いた。

「それじゃ、私そろそろ」

 何か言おうとしている彼女の腕を掴んでしまったのは無意識の内だ。こうして腕に触れたのは好意を自覚してからご無沙汰だったように思え、その暖かさにぐっと喉が鳴る。不思議そうに見てくる雪江へ返事を返す事もせずに布団へ転がると、鬼灯は腕を引いた。引力に逆らう事もなく歩みを進めた彼女の体はベッドへ軽々と乗り上げてしまう。自然と近づいた顔は真っ赤に染まっていた。

「…少し話をしてくれませんか」

 そんな彼女に悪いとは思えど、手放す気は毛頭ない。自身が補佐官で彼女がまだ就業中である事も忘れ、彼は子供のように彼女の声を強請る。

「しばらく、雪江さんとお話もしていなかったので…」

 先ほど腕を掴んでしまったのは無意識だと思っていたが本当は違うのだろう。本当は好きな女と少しでも長くいたい男心が彼を動かした。握りしめていた場所を腕から指へ変えれば雪江は顔を赤くしたまま肩を震わせる。困ったように視線を左右へと動かして何か言いたげに唇を動かす姿に肩の力が抜けた。安心する、とはこういう事なのだろう。

「鬼灯くん、無理しちゃだめよ」
「はい…ご心配をおかけして申し訳ありません」
「お父さんも貴方とお酒飲みたいって言ってたから」
「私もです、次の休みの時は飲みましょうと伝えてくださいますか」
「うん、喜ぶわ」

「雪江さん」
「ん?」
「貴女といると安心します」

 夜遅くになっても帰ってこない自分を探し回って、血に塗れた体を抱きしめてくれたあの時から彼女の事が好きなのだと自覚した。好意を口に出す事はまだ出来ずにいる。握りしめた指先を両手で包んで彼はそっと目蓋を閉じた。雪江は何かを言っていた気もするがそこまで聞きとる事は出来なかった。

 それからどれほどの時が経ったのか、目を覚ますと彼女はもうそこにはいなかった。変わりに置かれていたのはラップのかかった握り飯。その横には女性らしい繊細な文字の書かれた紙切れが置かれている。

「無理しないで、か」

 無理しないで、家で待ってます。
 その言葉だけでどれほど自分が歓喜するかきっと彼女は知らない。口に運んだ握り飯は塩しか味付けされていないはずなのに、どうしてかとても美味かった。

140823