何時だってお父さん、お父さん。三回に一度くらいしかお母さんの事は呼ぼうとしない末の娘は今日もまた父親の広い背中にくっついて何が楽しいのか笑い声をあげている。洗濯物をたたむ手の動きは止める事なく雪江は、いつの間にかじゃれ始めた父娘に苦笑を向けた。「最近は仕事が立て込んでいて忙しくてあまり遊んでやれなかったから今日は甘やかしてやるんです」そう言っていたのは朝で今はもう昼の三時を過ぎた。もう充分に遊んでもらっただろうに、未だ由喜は離れようとはしない。
 ふと視線を娘から夫へ移せば少し眠たそうに目蓋を擦っているのが目に留まる。そりゃそうだろう、昨日までほぼ不眠で仕事を終わらせたのだから本当ならゆっくりと寝ていたいに決まっている。最後の一枚のタオルをたたみ終える。彼女は自然な声色を心掛けて由喜と呼んだ。

「洗濯物運ぶの手伝ってくれますか?」
「んー」
「このタオルをお風呂場へ持って行ってくれたらおやつにしますから、ね?」

 まだ幼い娘に合わせて渡すのは数枚の薄手のタオルのみにした。父親と離れるのは嫌だけどおやつは欲しい。そんな心情を隠そうともせずに由喜は母から受け取ったタオルを両手にくるりと父親を見上げる。

「すぐ帰ってくるからどこにもいかないでね」
「はい、ちゃんと待ってますよ」

 優しい返事に嬉しそうに笑って由喜は居間を飛び出して行った。慌てて洗い立てのタオルを落とさないといいのだけど、雪江は心配そうに開けっぱなしの襖を閉める。そしてそれ以上に心配そうに鬼灯の方へ顔を向けた。

「お疲れなのでしょう?少し眠られては?」
「そうですね…少し、眠いです」

 そうは言うが横になる気配はない。困ったものだとため息をつきそうになるのを押さえて約束のおやつの準備に取り掛かる。今日のおやつは昼食後に作った手作りクッキーである。以前、某雪鬼に全て食べられてからというもの、この家で定着してしまった焼き菓子を皿に盛り居間へ戻れば、既にそこには娘の姿があった。早い、さすがは鬼神の娘。

「由喜、手は?」
「洗った!」
「お利口さんですね」

 誇らしげに綺麗な両手を翳して、大好きな父親に褒められたのがとても嬉しかったらしい。ひとしきり可愛らしい声で笑うと、彼女はふと頭を撫でる父親の左手を取った。

「由喜?」

 不思議そうに鬼灯と雪江が頭上から見降ろす。由喜の視線は彼の左手の薬指へ集中していた。シンプルな銀色の結婚指輪。それをじっと見つめているようだった。

「きれい」

 ああ、なるほど。二人は顔を見合わせて肩をすくめた。幼くとも由喜も女、指輪などアクセサリーの類には敏感なのだ。しかも最近の子供はませていると言うべきか、この指輪がどういう意味の物であるかも分かっているに違いない。魅了されたように何度も小さな手でぺたぺたと触る由喜の頬はピンク色に染まっている。自分の成長した未来を想像しているのかもしれないと雪江は笑う。

「お母さんのも見せて!」
「はい、どうぞ」

 言われるままに差し出した左手は鬼灯の手の横に並べられた。両方のサイズ違いの指輪を見比べて頬を緩ませて、きゃあと甲高い声を上げる。そして何が嬉しいのか二人の薬指を握り締めて自分のふっくらとした頬へと押しつけた。

「わたしも、おなじのほしいなあ」

 その声色は玩具がほしいと懇願する時よりも切実だった。どう言った意図で同じ物がほしいと言ったのかは分からないが、指輪を用意する事など出来るはずもない。困って返答に困っていると由喜のおねだりの矛先は父親へと向いた。しかし、今日は何時もと同じようにはいかなかった。大抵の物なら買い与えてくれる父親が、今日ばかりはきっぱりと駄目だと言ったのだ。

「これは夫婦だけがつけられる物なんです、貴女はいつか…本当に好きになった他の男からもらいなさい」
「わたしお父さんの事すきだよ?」
「その好きじゃないんです、私が貴女のお母さんに向ける感情とはまた別物なんですよ」

 その諭すような口ぶりが雪江は意外でならなかった。今までの鬼灯の甘やかしようから考えると、同じ物とは行かずとも指輪くらい買い与えそうな物なのに。吃驚して目を見開いたまま固まってしまった雪江の意識をこちらへ戻すように鬼灯は傍にあった彼女の指先へ自身の指先を絡める。優しく絡み合わせて、そうして幼くまだ意味を理解していない愛娘の額へ口づけた。



 遊び疲れてぐっすりと眠ってしまった由喜を寝室に寝かしつけて戻ってみれば、そこには舟を漕ぐ鬼灯の姿があった。無理もない、由喜の前で耐え続けていただけでも拍手を送りたいくらいなのだから。
 そっと横に座れば示し合わせたように頭が膝の上に乗る。仰向けに転がって顕わになった隈の出来た目尻を撫でれば、ぐっと喉が鳴った。

「…少しだけ、嬉しかったです。あの子の前でああいう風に言ってくれた事」
「たまには子供だけじゃなく奥さんにもサービスしないと、またどこかへ逃げられてはたまりませんからね」
「どこにも行きませんよ」

 頭に腕が回されて引き寄せられる力に添うように首を曲げる。そっと触れるだけに留めた唇は至近距離で小さく動いた。

「しばらく寝ます、後で…起こしてください」
「はい、おやすみなさい」

 本当に情けない話、雪江は実子にヤキモチをやいている。久々に休みの取れた鬼灯を独り占めして羨ましいと感じている。母親だってたまにはこうして夫を甘やかしたいし、甘えてみたいのだ。だから今この時だけは、独り占めする事を許してほしいと彼女は眠りについた彼の頬へ軽く口づけを送るのだった。

140803