不喜処地獄は、平たく言えば生前動物虐待を行った人間の落ちる地獄である。刑罰は主に動物たちに喰われる事。可愛らしい顔をした犬や猿、鳥たちが亡者の四肢を噛みちぎり、生き血を啜る姿は実にショッキングだ。
 そんな光景を前にニコニコと笑っているのは地獄を裏で牛耳る閻魔大王第一補佐官の第三子。普通の子供ならショックを受けてしまいそうな光景を前に平然としている辺り、彼女もまた"普通"の子供ではないのだ。

「動物さんたちいっぱいねえ」
「そうですね…あ、由喜!ほら、あっち見てごらんなさい。象が亡者を踏みつけていますよ」
「あ、つぶれた」
「ああー掃除が大変なんですよあれ」
「姉妹でする会話か?それ」

 亡者がつぶされただの、掃除が大変だの、久々に会った姉妹がする会話では絶対にない。自称、この場で唯一常識的である多喜のツッコミが今日も冴え渡る。
 二人そろってこちらを見た妹たちは年が離れているせいで一見すると、顔立ちの良く似た親子のようにも見える。姉の腕に抱かれた由喜は、兄の呆れ混じりの視線に不思議そうに首を傾げ、喜子は同様の視線を注いだ。容姿も性格も父親に良く似た喜子のそれが正直多喜は苦手だ。それでも兄の矜持、並びに母親似の由喜の教育のために彼は己を奮い立たせる。

「兄さん、貴方自分の父親が誰か分かって言ってます?」

 だが、この妹の前にはそんな物は通用しない。たった一言で撃沈した多喜はぐっと言葉に詰まり、大きなため息をついた。
 そうだ、我らが父は閻魔大王の第一補佐官。彼の子供が地獄の刑場一つで怯えるなどあるはずがないのだ。たとえ、末の妹が兄妹の中で唯一母親似であったとしても。

「あれ、多喜くんだ」
「あ、シロ」

 案外逞しい妹に認識を改めていると、背後から地獄に似つかわしくない明るい声が聞こえて彼らは一斉に振り返った。多喜の膝よりも低い位置、ちょうど由喜の腰ほどの位置から見上げるのは不喜処の白い犬とバンダナを巻いた猿に大きな雉。桃源郷で働く桃太郎の元お伴の三匹だ。

「由喜ちゃんもいるー!今日は鬼灯様一緒じゃないの?」
「今日はお父さん、お仕事なんです」
「あー新しい小地獄の制定で忙しいって言ってたもんなあ」

 シロたちが見かける雪江と言えば、たいてい鬼灯の腕に抱かれている姿ばかりである。大事そうに抱かれて笑う少女ばかりを覚えている彼らは辺りに彼女の父親がいない事を不思議に思ったようだった。きょろきょろと辺りを見渡し、思い出したように呟いたルリオに姉の腕の中の由喜はしょんぼりと肩を落とした。

「お父さん、最近いそがしいってかまってくれないの…」

 今にも泣き出しそうな声色で呟いた由喜に「しまった」とお伴三匹と多喜たちの意識が同調した。母親似の幼い末妹が父親っ子である事は周知の事実である。物心ついた頃からお父さん、お父さんで何時も甘えていた彼女が寂しがるのも当然だった。
 その気持ちがよく分かるのは同じく父親っ子であった姉の喜子だ。幼いころ、仕事の忙しさであまり構ってもらえず寂しい思いをした彼女は、悲しげな雰囲気を漂わせる妹の顔へ頬を寄せて優しく髪を撫でてやる。

「あ、そうだ!俺たち今から鬼灯様の所に有給届け出しに行くんだけど由喜ちゃんも一緒に行く?」

 それでも機嫌の治りそうにない由喜に気を使ったのか、はたまた何時もの調子での突拍子のない提案か。その答えはシロにしか分からないが、多喜と喜子にとってはありがたい提案だった。有給届けを提出するシロたちの付き添いの名目であれば、仕事の鬼と化した鬼灯も文句は言うまい。ほっとした兄と姉につられたのか、由喜は目尻を拭いながら「うん」と頷いた。



 新たな小地獄の制定もそうだが、鬼灯の机の上に山積みになった書類の内の半分は閻魔大王が貯め込んだそれである。今日も家に帰れそうにない。そう言わんばかりに額に手を当てて大きく息を吐いた鬼灯に三匹はびくりと体を震わせた。

「ほ、鬼灯様」
「ああ、シロさんたちですか…」
「お疲れですね」
「ええ、まあ…どっかのメタボリックのせいでね」

 メタボリックと言われると最近太ってしまった三匹にも辛い所がある。普段以上にピリピリとした鬼灯に怯えながらも三匹は無事に有給届けを提出すると、顔を見合わせた。また判子を押す作業を始めた鬼灯に柿助が恐る恐ると話しかける。

「あの、由喜ちゃ…「由喜が何ですか?」
「ひいいっ」

 仕事の鬼状態の父親に愛娘の名前は禁句だったのだろうか。今にも全員を射殺さんばかりの眼光で見降ろす鬼神はとてつもなく恐ろしい。その視線を浴びる三匹は今まで以上に怯えながらも、扉の先で待っている由喜の事を心配した。喜子に抱かれてまた泣いてやいないだろうか。
 するとそんな心配に感づいたのだろうか。鬼灯はふうと息を吐きだすと少しばかり穏やかな声色で話し出した。今までの疲れを癒すように目を閉じて、指先を組んでゆっくりと、絵本でも読み聞かせるかのように。

「…由喜に寂しい思いをさせている自覚はあります。もちろん今は大きくなった多喜や喜子にもね」
「え?」
「意外だと言いたげな顔ですね。でも私も一応親ですから、あの子たちの変化には気づくものなのですよ。あの子たち私に変に気を使うんですよねえ…甘えちゃいけないと我慢しているのが伝わって来て」

 三匹はしょんぼりと項垂れた。甘えたいのに甘える事の出来ない子供たちと、甘やかしたいのに忙しさで甘やかす事のできない父親が一枚の扉を隔てた場所に立っている。三匹の中でも一際聡明なルリオはこの場から遠ざかる足音を聞いていた。きっと地獄耳を持つ鬼灯にも聞こえているだろう。それでも追いかけてやる事もしない鬼灯に、ルリオは彼らの親子関係を見た気がした。

「まあ埋め合わせはちゃんとしますよ。この書類の山を片づけたら休みをもらえるよう手配してあるんです。たまには家族サービスしないと雪江にも怒られそうですからね」

 普通の家庭に比べればこの親子関係は少し変わっているのかもしれない。けれど冷徹と名高いこの鬼神は、案外子供の事を分かっていてちゃんと可愛がっているのだな、とルリオは胸を膨らませた。それは柿助もシロも同じであったようで彼らは大恩ある上司への激励を忘れずに、自分の持ち場へと戻って行った。

 その数日後、楽しく有給を過ごしたシロたちは不喜処のそばを通り過ぎる鬼灯と、その家族とを目撃した。無表情ながら楽しげな鬼灯と、可愛らしい笑顔を振りまく由喜とその横の兄・姉、そして母親の雪江に彼らは「ああ、良かった」と息をつくのであった。

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