地獄に来て何が一番驚いたって自分がと言うか正確には前世の私が、あの鬼灯さんの奥さんで二人も子供を産んでいたと言う事実だ。意味の分からない話を聞いて公園で気を失った私は、目が覚めるや否やここがどこかも聞かされぬまま鬼灯さんに桃源郷へと連れて行かれた。そこで会ったのは私の娘だという喜子ちゃんとその旦那さんである白澤さん。彼は神獣様で漢方医だそうだ。

「だからって何で注射!?」
「痛くないから大人しくなさい!!」
「いや、だって針太すぎでしょう!」

 何でも前世の私の死因は原因不明の病であったそうで、私が死んで以降鬼灯さんはこの白澤さんと共に妻の仇と病の特効薬を開発したのだそうだ。そのおかげで病は広がる事はなく、今ではこうしてワクチンまで出来たのだそうで。あの太すぎる針で刺されるのは涙が出るほどに痛みを伴った。

「良かった、これで貴女をまた病などに取られずに済む」

 けれど鬼灯さんがあまりにも安心した顔で優しく私を抱きしめたものだから、恨みごとの一つも言えなかった。ただ私はこの状況を受け入れる事もできずされるがままとなっていた。背中に白澤さんの何か言いたげな眼差しを感じながら。



 雪江ちゃんが人間になって帰って来て以来、あの一本角は常に彼女をそばに置くようになった。一度失った恐怖が抜けきらないのか知らないけれど、顔形はそっくりでも決して雪江ちゃんではない存在を傍に置く姿は、正直見てはいられない。
 けれどそれを言っても喜子ちゃんは「お父さんが幸せならそれでいいんです」と言うばかり。僕と同じ考えなのは二人の長男である多喜くんのみだった。
 多喜くんは生まれて三百年間、雪江ちゃんと二人きりで生活して来た。ゆえに母親に対する愛情は人一倍ある。ゆえに雪江ちゃんが死んだ時は顔には出さないものの相当落ち込んでいて、ようやく立ち直りそうになっていたと言うのに、母の"生まれ変わり"が現れたのだから気持ちに踏ん切りもつきやしない。可哀想に。僕は同情してしまう。雪江ちゃんにも多喜くんにも、癪だけど鬼灯にも。

「雪江ちゃん記憶ないんだろう」

 僕は中国の神獣でこっちの世の事は管轄外なのだけど、一応奥さんの家族だから見捨ててはおけない。それに今のこいつと真正面から話せるのはきっと僕だけだ。
 鬼灯は帰る間際、執務室に乗り込んで腕を組んだ僕にあいつは多少なりとも動揺したようだった。荷物を纏める指先が微かに震えたのを僕の三つの目は見逃さない。

「彼女は人間だ。しかもまだ死ぬべきじゃなかった。それなのにお前は勝手なエゴで彼女を地獄へ引っ張り込んだ。肉体はもう埋葬されてるんだろ?ならせめて輪廻に返してやれよ、転生して見守ってやるのも…」

 一つの愛情だろう。そう続くはずだった言葉は飛んで来た金棒でかき消されてしまった。僕の顔面スレスレを飛んで行った凶器は柱へ激突し、破片をそこら中に飛び散らせる。さすがに胆が冷えて恐る恐ると正面を向けば、あの鬼は相当怒っているようだった。凶悪な面相で、きっと今なら視線だけで人を殺せる。

「何を言うかと思えば私相手に神様ごっこですか白豚」
「いや一応神様だからな、僕」
「生憎私は神を信仰しておりませんので、どんなに貴方がそれらしい台詞で諭そうと自分の意思を変える事はありません」
「お前の意思なんて聞いてない。今は雪江ちゃんの話をしてるんだ!」

 いい加減目を覚ませよ常闇鬼神。魂は一緒だろうと、見目が同じだろうと彼女はお前の奥さんじゃない。

「雪江ちゃんが可哀想だ」

 まだまだ現世で生きて幸せになるはずだったのに、こんな鬼に見つかったばっかりにどこにも行けずに縛り付けられて。誰にも頼れず、終わりのない生を歩むなんて。
 最後に雪江ちゃんを見たのはひと月は前。鬼灯に連れられて喜子ちゃんに会いに来た時だった。やつれていた。頬が削げて、白い顔はもはや青かった。それでも鬼灯のために母親を演じて喜子ちゃんを抱きしめたりなんてして。決してこいつは自分を見ている訳じゃない事に気づいているはずなのに。

「可哀想?随分と神らしい慈悲の言葉を吐きますね」

 そしてこいつも雪江ちゃんに死んだ奥さんを見ているだけだと言う事に気づいていない。

「雪江は望んでここにいるんですよ」
「お前っ」
「最後まで話を聞きなさい」

 随分と勝手な物言いに思わず声を荒げそうになるも片手で制される。そうする鬼灯の顔はほんの僅かにだが笑っていて、何だか嫌な予感を覚えた。
 どうか僕の予想が外れますように。そう心の中から思うけれど分かっている。ああ、こいつはもう雪江ちゃんを失いたくないばっかりに、なんて事を。

「ねえ白澤さん、亡者も鬼の子を産めますかね?」

 ごめんね、多喜くん。僕ももうどうしようもないよ。腹にあの世の者の子を宿して輪廻に返るなんて無理な話なんだ。だからせめて、同情してやろう。神様らしく慈悲を与えてあげようと僕は思うんだ。

「この子はきっと幸せになるよ」

 生まれた赤ん坊を抱き抱えて涙を流して笑う雪江ちゃんの額へ指を添えて僕は囁く。白い布に包まれた赤ん坊は一身に僕を睨んでいた。どこまでもあいつにそっくりで笑ってしまう。安心しきった顔で枕に頭を埋めた彼女の横にはいつの間にか鬼灯の姿があった。本当に安心したように息をついて赤ん坊と彼女を抱きしめるこいつの背中は冷徹な鬼などではなく、ただの男の物でしかなくて。それを見ていると何故だか僕の方が泣きたくなってしまった。

140713