ああ、厄介な日に家に帰って来ちゃったなあ。多喜は居間に繋がる扉の取っ手に手をかけて暫し動きを止めた。扉の向こう側から聞こえるのは珍しく声を荒げる喜子とそれに負けないくらいの大声を出す父親の声。時折聞こえる白澤の名前からして妹たちが言い争っている原因が自分の師匠にある事は火を見るより明らかだった。
 さて、どうしたものか。一旦扉から手を離し腕を組んで考える。すると考える時間など与えないとでも言うかのように一際大きな声がして目の前の扉が蹴破られた。文字通り、蹴って飛ばされたのである。

「喜子!?」
「っ」

 他ならぬ妹によって。扉を蹴飛ばした喜子は慌てる兄へ一瞥をやると玄関から飛び出して行った。一瞬見えた横顔には珍しく涙がたまっていたように思う。
 いよいよ面倒な事になったと髪をかき、居間へ入れば案の定鬼灯は苛々としていた。久々に帰って来た息子にガンをつけてくるくらいなのでこれは特にひどい。

「白澤さんの事で…すよねえ」
「我が娘ながらこればかりは理解できません。何故あんな脳みそ以外取り得のない男が良いのか…」
「まあ、そこには半分同意するけど」

 喜子が惚れているのは神獣、白澤。太古から生きる神でその知識は誰も勝てぬほどに豊富。性格は温和で争い事はあまり好まない。しかしその実、女好きで収入のほとんどを女性との交友関係に当てるのだから、何と言うか勿体ない男なのだ。
 そしてその白澤を、鬼灯が過去の様々な因縁から毛嫌いしている事も知っている。もちろんそれは父親ッ子である喜子も分かっているはずなのに、あの妹は白澤が好きなのだと隠そうともしない。そういう所も父親に似たのだろうと多喜は母と共にため息をつくのだが、きっとこの父親はそんな事分かっていない。
 今日もまたふうと息をつくと鬼灯が立ちあがった。気だるげに肩を回して廊下に出る後ろ姿に慌てて追いかける。ああ、もう何で俺がこんな目に!心の中で叫ぶ。

「お、お父さん!」
「用があるのなら後になさい。私は喜子を探しに行かねばならないんですよ」
「いや、その…」

 思わず呼びとめてみたものの、それらしい理由を考えているはずもなく多喜は立ち竦んで言葉を詰まらせた。このまま無言でいた所でこ鬼灯が心情を察してくれるはずもない。咄嗟に思い浮かんだ事をそれらしく話す。それだけに神経を集中させる。

「さ、さっきお母さんと会ったんだけど荷物重そうだったんだ!まだ買い物があるから後でお父さんに迎えに来てもらうよう言ってくれって言われてて」
「雪江が?」
「はい、だから喜子は俺が探しに行きますから、お母さんの迎え頼んでもいいですか?」

 ぴくっと鬼灯の眉が跳ねた瞬間心臓が嫌な音を立てて軋んだ。駄目だったか、そう思われたが予想と反して鬼灯は素直に頷きを返して踵を返し居間へ戻る。横を通り過ぎた際「宜しくお願いしますね」の言葉と共に。

 家を飛び出してすぐ多喜は白澤へ電話をかけた。数コール後に出た師匠の声は既に酒に溺れていたがそれを気にしている余裕はない。喜子が家を飛び出して見つからない旨を伝える。白澤は悩んでいるようだったが、優しい彼の事。探しに出てくれるはずだ。再度息をつき、多喜は歩きだす。白澤一人に任せるわけにもいかない。喜子を探し出し、見守るのは兄の役目だ。



「見つけたよ喜子ちゃん」

 荒い呼吸と共に吐きだすように呟かれた台詞に喜子は後ろを振り返った。街頭の光がわずかに差し込む暗闇の中に白衣の男はやけに目立つ。
 白澤様、呼べば彼は眉を下げて首を傾げた。困った時にする仕草だ。

「多喜くんが探してるんだ。ほら、送ってあげるからおいで」
「兄さんが?お父さんではなく?」
「多分あいつも心配してるとは思うけどね」

 白澤の言葉に何となく察しがいった。随分と分かりやすいアシストだと今頃傍で見守っているだろう兄を思い浮かべる。

「手を繋いでくださるなら帰ります」
「しょうがないなあ」

 でも、こうして好きな人と手を繋げるのだから兄には感謝せねばなりませんね。
 差し出された暖かな手に自分の指先を絡め、喜子はふと目を細めた。



 迎えに行って見れば雪江は驚いた顔をして暫し夫を凝視した。その手には小さな荷物が少しのみ。そりゃあそうだ。彼女は醤油を切らせたと買い出しに出かけただけなのだ。鬼灯は肩を竦めて彼女の腕から袋を奪った。空いた手で彼女の手を取る。

「それにしても多喜は嘘が下手ですねえ」
「え?」
「素直な子に育ったと言ったんですよ」

 癪ではあるが、勇気を振り絞った息子の手前今はあの天敵に娘を迎えに行く権利を譲ろう。しかし次からは容赦しない。
 不思議がる雪江の視線を感じながら鬼灯は今頃影から喜子を見守っているであろう息子の姿を思い浮かべた。苦労を背負いやすいのは性分なのだろうが、こうもひどくては息子の将来が心配になってしまう。兄心も複雑なのかもしれませんけど、親心はそれ以上に複雑なのですよ。繋いだ手とは反対側の手に持つ袋の中で醤油瓶がカシャンと擦れる音がした。

140710