今にも泣き出しそうな顔をした閻魔大王に抱えられて、顔色を悪くさせた鬼灯を見た瞬間の雪江の悲鳴はまさに天をも貫いた。あの白澤が彼女の悲鳴を聞きつけて地獄に駆け付けたから"まさに"である。と、こういうと多喜が心配していないように感じられるが断じてそうではない。母親の悲鳴に呆気に取られたせいで出遅れはしたものの、彼も負けないくらいの大声をあげていた。
 嫌がる白澤を何とか説き伏せて、寝室の布団に鬼灯を寝かせると幾分か顔色が良くなったように感じられた。きっと閻魔大王が急いで駆けて来てずっと揺られ続けていたせいであの顔色だったのだろう。額に浮かぶ玉の汗を手ぬぐいで拭ってやりながら雪江はほっと安堵の息を吐いた。

「こいつが倒れたのは過労だよ過労。どうせまた徹夜続きだったんだろう?今こいつに必要なのは休養。薬はいらない。てなわけで僕はこのまま花街に行くから、じゃあね雪江ちゃん多喜くん」

 ひらひらと手を振って出て行った白澤に頭を下げたのは多喜だけだった。心配性で気弱な雪江は、きっと白澤が帰った事に気づいてもいない。
 先ほどの鬼灯以上に顔色を悪くさせた母親と、青白さの抜けない父親とを交互に見つめ多喜は眉を下げる。早く、目を覚ましてよお父さん。



 さすがに仮眠すらも取らずに五徹はきつかったか。自分の体が横に倒れるのを感じつつ、鬼灯はなんとも的外れな事を思っていた。慌てふためく閻魔の大声に不快感に顰めた眉をそのままに気を失った鬼灯は、片手に感じる暖かさにうっすらと目蓋を上げた。まだ眠い、寝ていたいと我儘を言うそれを無理やりに持ち上げたせいかあまり視界が効かない。伸ばされた手に、というよりは指先に力を込める。何か大きなものに打つかって上手く曲げれない。第二関節をほんの少し曲げた状態で彼は、もう片方の手をそちらへ伸ばす。触れたのは柔らかな肌。

「雪江、多喜…?」

 女性の細い指先と、子供の小さな手が鬼灯の手をぎゅっと掴んでいる。何度か指先で確かめて確信を得た時視界が開けた。
 布団に寝かせられた自分とその横で寝そべるようにして眠る妻と息子。壁に立てかけられた時計を見れば時刻は午前を過ぎていた。確か気を失ったのは十九時すぎ。あれからすぐ家に帰って来たとして、彼女たちはどれほど前から自分の横にいたのだろうか。そんな事をぼんやりと考えて鬼灯は僅かに口角を持ち上げた。口端から涎を流している多喜となぜか魘されている雪江を見ていると自然とそうなってしまうのだから不思議だった。こうして笑う事など久しくなかったと言うのに。

 重たい体で這いずるように二人へ身を寄せて、彼は自分にかかっていた布団で二人を包んだ。八大地獄で温暖な気候であると言っても夜は冷えるのだ。案の定その肩は冷え切っていた。繋がれていた手をやんわりと解いて、両手で体を摩ってやる。微かに不満げな声をあげてすり寄って来た多喜は、そのまま腕で抱きとめた。

「明日も学校があるでしょうに…」

 夢でも見ているのか頬が緩みっぱなしの多喜は、父親の腕の中にいるとも気付かずに鬼灯の襦袢をぎゅっと握りしめてくる。そうすると今度は「無視しないでください」とでも言うように雪江が寝がえりを打ち、身を寄せて来た。
 一気に窮屈になった一枚布団。それなのに全く不快感も感じない。むしろ彼はこの状況を嬉しいとさえ思っていた。本当に不思議な事に。

「ありがとうございます、二人とも」

 どこにもいかないで、と言うように襦袢を掴む息子と身を寄せる妻。二人の温もりを確かに感じつつ身を屈めて二人の頬へ自身の頬を寄せる。そしてゆっくりと、しかし着実に迫りつつある睡魔に身を委ねた。

 そして数時間後の明朝。ふと目を覚ますと腕の中の二人は鬼灯の顔を見るや否やくしゃりと顔を歪めた。笑みにも、泣いているようにも見える不思議なそれに微かな呆れを覚えつつ鬼灯は指先で二人の頬を包んでやる。
 ほら、昨日の貴方たちの手のように暖かいでしょう?私はちゃんとここにいますよ。ですから泣かないで。
 それでもどうせこの泣き虫な最愛の妻子は泣いてしまうのだろうから。その時は、とうとう零れた涙を襦袢の裾で拭って優しく抱きしめてやろう。どちらからともなく零れ落ちた涙で赤の襦袢を色濃く染めながら彼はそう考えていた。

140630