ふと目を覚ますと横に夫の姿がなかった。ぼんやりと眠気眼を擦って時計を見る。時刻は夜中の一時を過ぎていた。ちなみに布団に入ったのは十二時くらい。鬼灯は仕事疲れ、雪江は子育て疲れで触れあう間もなく早々に眠りについたはずなのに、何故彼は現在ここにいないのだろう。
 首を巡らせて横を見る。襖が小さく開かれ、夜風か入ってくる。ああ、そういう事か。納得がいって雪江はふうと息を吐いて暖かな布団から這い出た。
 廊下に出て、縁側へ向かう。金魚草が揺れる中庭には鬼灯と、その腕に抱かれた幼いわが子の姿があった。足を外へ投げ出して横に腰かける。少しばかり丸くなった鋭い目が雪江へ向けられていた。

「起こしてしまいましたか」
「いえ、勝手に目が覚めたんです…それより起こしてくれれば良かったのに」
「心地よさそうに寝てましたから、それにこの子が私が良いと言ったものですから」
「本当に父親っ子になっちゃって…」

 五歳ほどの由喜は、鬼灯の教育もあってか見事なほどに父親が大好きだった。つい最近では「お父さんと結婚する」が口癖になっているし、こうして夜眠れない時も母親ではなく父親に助けを求める。
 現在も大好きな父親の腕の中で体を寄せる末の娘は健やかな寝息を立てている。あどけない笑みを見るに、きっと夢の中でも父親に甘えているのだろう。それが微笑ましくもあり、同時に少しばかりの嫉妬を覚えてしまう。駄目な母親だと自分を叱咤して自分譲りの白い頬に指を添えれば小さく唸り声をあげて、目蓋が持ち上がった。

「おとーさん?」

 こんな時でも呼ぶのはやはり父親だ。もはや母親の存在など眼中に入っていないのではなかろうか。腕の持ち主を見上げた由喜は小さな手をいっぱいに伸ばす。

「ここにいますよ」

 それを優しく握ってやって、手と同じように優しく呼びかけてやるのが鬼灯の常だった。ぎゅぅと力強く握りしめられた小さな手に由喜は嬉しそうに笑う。
 そのまま眠ってくれれば良かったのだが、睡魔はどこかへ吹き飛んでしまったようである。笑い声をあげて抱きつく我が子に両親は揃ってため息をついた。

「由喜、もう遅いのだから早く寝なくちゃダメよ」
「でも、」
「朝つらいのは貴女ですよ」

 不満げな由喜の目に雪江は眉を下げて諭すように語りかける。しかし由喜はどうしても眠りたくないらしい。首を横に振って母親から隠れるように鬼灯の膝から降りてその背に回る。ひょっこりと覗かせた瞳は今にも泣きだしそうに潤んでいた。

「いや、寝たくない」
「由喜ちゃん…良い子だからほら、」
「お母さんは機嫌を取る時だけちゃん付けするってお兄ちゃんが言ってた」
(多喜!?)

 なんといういらない情報を教えているのだろうかあの長男は!
 両手を差し出したまま固まってしまった雪江は、額から汗を流して視線を泳がせている。後ろめたい、そんな気持ちが伝わってくるようで鬼灯はそんな妻に呆れ眼をくれてやった。次いで後ろに腕を回して細い体を持ち上げる。小さな体は力に逆らう事なく再度鬼灯の腕の中へと戻った。抱き上げて、そのまま立ちがある。意識を取り戻したらしい雪江が何か言いたげな視線を向けて来た。

「由喜を寝かしつけて来ますから、貴女は先に寝ていなさい」



 ぐずって離れようとしない由喜をどうにかこうにか寝かしつけて寝室へ戻ると雪江は正座して待っていた。起きていた事にも驚きだが、心なしか肩が落ちている事の方に驚く。もしやこの妻、先ほどの事をまだ気にしているのだろうか。

「私、駄目な母親です…」
「先ほどの事を気にしているのですか?」
「少し、違います」

 首を横に振って項垂れる雪江の横に腰かけて、その肩へ手を回す。そのまま引き寄せると、先ほどの由喜同様にすっぽりと腕の中へ収まった。

「では、嫉妬でもしましたか?」
「!」

 冗談半分で口にした言葉に雪江は分かりやすい反応を返した。肩を大きく揺らして口をぱくぱくと開閉させる。その頬は真っ赤に染まっていて、言葉はなくとも鬼灯の問いの返事になっていた。
 くっと低く喉を鳴らして鬼灯は雪江の髪に頬を寄せた。肩に回していた腕を腰へと回して今は平らな腹を撫でる。

「あの子は貴女がここを痛めて生んだ子供でしょう、それは覆せない事実です」
「…だからこそですよ、そんな子に嫉妬するなんて私どうかしてます」
「分からない人ですねえ…良いですか、貴女の子供と言う事は私はあの子の父親。どう頑張った所で期待に答えて結婚してやる事なんて出来ないんです」

 どんなに可愛らしくおねだりされたってそればかりは叶えてやれない。自分は父親として無償の愛情を注いでやれるけれど、一人の男としての愛情はどうしたって一人にしかやれないのだから。

「ですからそう落ち込まないでください。そして自信を持ちなさい。いつだって私の一番は貴女だけですよ」

 地獄の鬼神に似合わぬ優しく甘い言葉は雪江の不安を取り除くようであり、同時に別室で眠る由喜に対しての罪悪感を募らせるものだった。
 触れてきた熱に答えながら、雪江は腕を夫の首へ回した。肩を押されるがままにもう冷たくなってしまった布団に倒れ込む。見上げた顔は先ほどの父親の顔から一変して既に男のものになっていて、今更ながら照れくさい。そして体を這う指先にそっと目を閉じてか細く名前を呼んだ時だった。

「おとーさーん!」

 遠く、廊下の奥から聞こえた泣き声に二人の動きがピタリと止まる。そう言えば嫁いでしまった喜子が幼い時もこんな事があったなあと雪江は思った。
 頭上では少しばかり苦い表情をした鬼灯が肩の力を抜いて、体を起こした。僅かに乱れた襦袢を正して彼は襖を開く。

「先に寝ていなさい」

 今度こそ寝ているようにと釘を打って消えて行った背中に雪江は苦笑して布団を被る。由喜が父親離れをして、自分だけの良い人を見つけるのは一体いつになる事か。遠い先を想像しながら睡魔に身を預けた。

150614