あれ、桃タロー君どこいくの?なんて暢気に笑う師匠に胆が冷えた。桃太郎は風呂敷片手に桃源郷の暖かな日差しを浴びているにも関わらず冷や汗を流して走る。目指すは弟弟子である多喜が住んでいた家。ふうふうと熱い息を吐きながら桃太郎はやっとの思いで到着した。

「遅いです、桃太郎さん」

 膝に手をついて息を吐く桃太郎の鼓膜を可愛らしい少女の声が刺激した。そうと顔を上げて彼は笑う。家の扉から覗く白い顔にも笑みが浮かんだ。

「ごめんごめん、白澤様に感づかれちゃって」
「白澤さんも妙な所で目ざといんですね」

 そう言ってくすくすと笑う由喜はあの閻魔大王第一補佐官の鬼神とその妻の間に生まれた第三子である。つまり白澤の妻である喜子の妹に当たるわけだ。
 兄、姉とは違い母親に似た彼女は主に父親からの愛情を一身に受けて育った。大事な娘を天敵に取られたせいか、鬼灯はそりゃあもうこの娘を過保護に育てた。所詮箱入り娘という奴だった。

 そんな彼女、今年で人間年齢で言って十六になる。つい数年前に女子高に進学した彼女は時折父親の目を盗んではこうして桃源郷に遊びに来ていた。と言っても、極楽満月には行っていない。年の離れた姉には会いたいが、もし行こうものなら父親が怒り狂うためだ。にも関わらずこうして桃源郷を訪れ、人目を避けて桃太郎に会う訳…それは、まあそういう事なのである。

「月餅持って来たんだけど、食べる?」
「わあ、美味しそう!私、これ大好きなんです」
「良かった、実はこれ俺が作ったんだ」

 桃源郷にふさわしい穏やかな会話に心が癒されるようだと桃太郎は肩の力を抜いて大きく背伸びをした。横で手作りの月餅を頬張る少女は幸せそうな笑みを浮かべたままだ。ああ、可愛いなあ…この笑顔を見ると心がキュンとなる。
 由喜が桃太郎と出会ったのはつい数年前だ。父親のお伴が条件で姉に会うために極楽満月に彼女は訪れた。桃太郎は噂で第三子の事は知っていたし、それがあの雪江似である事も知っていた。だから初めて由喜を見た時は、これは鬼灯さん溺愛してるんだろうなあと他人事のように感じていた。しかし彼女はいつの間にか他人ではなくなった。何かあったわけではない。ただ気が付いたら由喜は大らかな桃太郎の雰囲気に惹かれ、桃太郎もまた彼女の柔らかな仕草にときめきを覚えたのだ。

「まあ告白してないんだけどな…」
「何か言いました?」
「な、なんでもない!」

 なぜ告白していないのか、その理由は大きく分けて二つある。まず彼女の父親である鬼灯が恐ろしい。もしお付き合いさせてくださいなんて言った日には金棒ですり潰されてミンチにされてしまう事だろう。そして二つ目。桃太郎は自分にあまり自信がなかった。桃太郎は所謂室町時代のイケメンである。現代っ子の由喜から見ればあまり見目が良いとは言えない。しかも彼には痛々しい過去がある。俺サイキョー!なんて叫んでいた日々を思い出すと、この純真無垢な少女に告白するのは憚られた。

「そう言えば今日はお父さんが仕事早く終わるって言ってました」
「ええ!?」

 早く言ってくれよ!!桃太郎は腹の底から悲鳴を上げた。もし仕事から帰って家に由喜がいない事を知ればあの鬼神は何をするか分からない。
 ミンチになる運命があっという間に近づいて来ている事実に桃太郎の顔面はもはや青を通り越して真っ白だ。しかしここは鬼神の娘。胆は据わっている。彼女は母親のように慌てる事はなく笑顔を浮かべたままで汚れた指先をハンカチで拭き取っている。

「大丈夫ですよ、お母さんが家にいますから」
「雪江さんが止めてくれるって?」
「多分、お母さん気付いてますよ私と桃太郎さんの事」

 そんな言い方をされると何だかいけない事をしている気分になってしまう。ドクドクと脈打つはずもない心臓を押さえこんで、うっと声を詰まらせる。すると彼女は首を傾げて見せた。母親譲りの艶のある髪が白い頬を滑る。
 くそ、やっぱり可愛い…大好きだ。ごくりと生唾を飲み込んで桃太郎はその場に膝をついた。熱く汗ばんだ手で不思議そうに首を傾げたままの彼女の手を取る。柔らかな手は桃太郎の手の中でピクリと震えた。

「あの、由喜ちゃん…俺っ」
「はいアウトオオオオオオ!!」

 俺ってどこまでも報われない英雄だなあ…桃太郎は暴風に吹き飛ばされながらぼんやりと考える。何度かバウンドを繰り返し、地面に倒れ込んだ桃太郎は回る視界をどうにか自分のいた場所へ向けた。そして後悔した。そこには愛娘を腕に抱き、射殺さんばかりの眼差しをこちらへ向ける鬼神がいた。もちろんその手には金棒を装備済みである。

「桃太郎さん…」
「は、はいいいい」
「貴方私の娘に何をしようとしていたんですか…?」

 ゆらりと揺れてこちらへ近づく鬼灯の恐ろしい事。声にならない悲鳴を口の端からもらして後ずさりながら首を横に振る。ち、違います!告白しようとはしてたけど、別にそれ以上の事はしようとしてません!そう言いたいが、悲しい哉恐怖に震える体では唇を動かす事すらも難しい。

「雪江がどうしても見守ってやってくれとお願いしてくるから黙って見ていましたが、親の許可なく娘の手を握るのは許せません」

 般若の形相で鬼灯が一歩近づく。桃太郎が一歩後ずさる。

「桃太郎さん、由喜に触れたければ私を倒してからになさい」
(なんですかその無理ゲー!?)

 まだ痛かった頃、無謀にも鬼灯に挑んだ事のある桃太郎には分かる。古今東西どこを探そうとこの鬼神に敵う者などいないと言う事が。
 けれどここは男の意地。不安そうに見守っている由喜を安心させてあわよくばあの笑顔を独り占めするために桃太郎は足に力を入れて踏ん張った。怯みそうになる心を叱咤して大きく息を吸う。そして、大きく叫んだ。

「娘さんを俺にください!!」

 この後、桃太郎がどうなったかは想像に容易い。だが一つ言えるのは、このおかげで彼は念願叶って可愛くて仕方が無い恋人を手に入れたと言う事だ。
 桃太郎は笑う。由喜が横で笑ってくれるのならこのくらいの怪我は安い物だと。
 そんな彼は今日も恋人の父親の妨害を潜りぬけて桃源郷を走る。あの場所では由喜が柔らかな笑みを見せてくれているはずだから。

150611