朝、目が覚めると妻が首を寝違えていました。

 首を押さえて時折唸りながら家事に勤しむ雪江の背中を胡坐をかきつつ眺める鬼灯の胸には一抹の罪悪感がある。昨晩は久々に夜に夫婦の時間が取れ、疲れた体をそのままに無理な体勢で眠ってしまった。朝起きれば彼女は鬼灯の腕に頭を置いていて、彼の腕は彼女の体を抱き寄せていた。原因は自分にあるため寝づらかっただろう妻を思うと罪悪感も湧く。
 洗濯物を庭先に干しながら雪江はまた「いたっ」と小さく声を上げた。ああ、見ていられない。せっかくの休みでゆっくりしようと思っていた気の緩みを叱咤して、庭先に降りると鬼灯は彼女の腕を取った。

「首が痛いのでしょう?家事はもう良いですから休みなさい」
「でもまだ夕飯の支度が…」
「学校から帰って来て母親が首を痛めたままでいたら多喜が心配します。ほら、早くあがりなさい」

 雪江はまだ何か言いたげであったがそれは強引に腕を引く事で無視をした。草履を蹴るように脱いで、畳みにあがった雪江の体をその場に座らせる。目を白黒とさせた彼女の後ろに回り込むと痛めているだろう患部へ触れてみる。

「んー」
「痛みます?」
「冷たくて気持ちが良いです」

 寝違えは温めるのではなく冷やす方が正解であるという知識を鬼灯は持っている。人より低い体温が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

「湿布でも貼ります?」
「湿布は匂いがツンとしてて苦手で…」
「子供のような事を言いますね」

 はあ、とため息をついて鬼灯は当てる手をもう片手へと変えた。今まで触れていた方の手は彼女の体温に触れ温くなってしまっている。
 寝違えは温めては逆効果、冷やすのが良い対処法。漢方の知識を学ぶ傍らで齧った知識からするにこのまま手を当ててやっていても良くはならない。嫌がられようとここは湿布を貼るのが一番手っ取り早いのだ。

「ちょっ、やめてくださ…っ」
「そういう声出すの止めてくれません?ムラッとしますから」
「しないでください!!」

 現在鬼灯は片手に良く冷えた湿布、もう片手で逃げようとする雪江の襟首を持っている。ぐいぐいと後ろに引っ張るせいで顕わになった首筋と胸元、そして顔を真っ赤にさせて嫌がる雪江に多少なりともそういった気が湧くのは否めない。しかし、今は妻の痛みを取り除いてやるのが一番の優先事項。元々鬼であるが今は心を鬼にして彼は嫌がる雪江の首筋に湿布をべたんと貼りつけた。

「っー匂いがきついです」
「鬼用ですからね、特にきついでしょう」

 鬼は嗅覚に優れている。特に生粋の鬼である雪江にはつらいものがあるのだろう。鼻を片手で覆って、つらそうに自分の首筋を見ようとする。そんな彼女の乱れた襟を直してやりながら鬼灯もまたツンとした独特の匂いに顔を歪めた。

「これが一番手っ取り早いんです。あとは多喜が帰ってくるまでゆっくりしていなさい。夕飯なら外に食べに行けば良い」
「でも、」
「でもじゃありません。良いからたまには休みなさい」

 有無を言わさぬ口調で言えば気の弱い雪江はすぐに言葉を詰まらせた。少し可哀想な気がしないでもないが、変な所で強情なこの妻はこうでもしない限り休もうとはしないだろう。渋々と横に座り込んだ雪江に鬼灯は内心安堵の息をつく。そしてちらりと横目で見て僅かに目を見開いた。
 普段この時間帯は家事に勤しんでいるせいだろうか。何もしないこの状況がつらいのか彼女はうつらうつらと舟を漕いでいた。正座したまま何度も頭を前に倒してははっとしたように起き上がっている姿は見ているこちらがつらい。その姿は、主婦としてのプライドが意地でも寝ようとしない気迫を感じさせた。

「いい加減、意地を張らずに素直になりなさい」

 たまには甘やかすだけじゃなく、甘えればいいのに。
 鬼灯は雪江の腕を引く。意識の半分飛びかけた彼女の体は引き寄せられるがままにそちらへと傾き、最後には彼の堅い膝へと頭を乗せた。何時もなら恥ずかしがってすぐに起き上がるはずが睡魔は限界に達していたのか起き上がる気配もない。
 目を細めて何か言いたげに見上げるその目を片手で蓋をする。時間を置いたおかげで手はまた冷えた。

「寝ていなさい。多喜が帰ってきたら起こしてあげますから」

 なるべく優しく静かにと心掛けて囁いてやると、ピクリと顎を震わせて雪江は体から力を抜いた。ものの数秒で小さな寝息が聞こえ始める。昨夜は無理をさせてしまったし、首の痛みだって眠れば少しは和らぐだろう。
 時計の秒針と風が庭の草木を揺らす音だけが耳に届く。なんてことない昼下がりの平穏な時に胸の奥からすっと力が抜けるのが分かった。
 ふうと大きく息を吐き出し鬼灯はそっと目を閉じる。多喜が学校から帰ってくるまであと二時間。少しだけ、眠ってしまおう。

150608