そうだ、現世へ行こうと思い立ったのは閻魔大王の計らいで突然舞い降りた連休の最終日の事だった。思い立ったら即行動派の鬼灯は道服姿にキャスケットだけを被って久々になる現世へ飛び降りた。けれど今日は少し趣向を変えてみた。何時もなら人間観察のために繁華街へ行く事が多いのだけど、今日は山奥の人の少ない村へと足を踏み入れて見た。
 古臭い作りの民家の並ぶ家は文明開化の時代にあって時代に取り残されているようだった。洋装の人間もいなければ、電信柱すら立っていない。どうやら村人は自給自足の生活をしているらしく、みな汗水たらして農業へ勤しんでいた。近年稀に見る古い日本の光景である。

「…ただ、気になるのは」

 村の外れの祠。人間に忘れ去られたように建てられたそれは苔が生え、何の神が祭られていたのかすら分からない。こんな村人たちなら熱心に祀りそうなものだが。しげしげと祠を眺める鬼灯はその内、とある物に気がついてしまった。祠の横に小さな墓を見つけたのだ。石が詰みあがっただけのそれをじっと見降ろす彼に一人の村人が近づいた。

「それは昔、わしが小さい頃に死んじまった娘の墓だ」
「それは病で?」
「いやあ…鬼様に捧げられたんだわ」

 捧げられた、その言葉に遥か遠い記憶を思い出す。飢えに苦しみ、村人を呪いながら死んだ幼い人間の自分が脳裏によみがえり、彼は思わず額を押さえた。村人は不思議そうに鬼灯を見ながら続ける。

「この村は変わっててなあ…鬼を祀っとったんだわ。理由はしらねえ、わしがこの村で一番の年増だが誰からも聞いた事はねえ」
「…そう、ですか」

 鬼様に捧げられた、どういう事だ。神ではなく鬼へ、この墓に埋まる子供は捧げられたと言うのか。
 鬼灯は村人が去ってなおここに留まった。すぐにでも気分が悪いと立ち去ってしまいたいのに何故か離れてはいけない気がして足が動かない。そうしてただただ墓を見つめてどれほどの時が経った時だっただろう。ふと、横の茂みから幼い少女の泣き声が聞こえた。

「誰かいるのですか」

 放っておけ、どうせ人間だ。そう頭は囁くのに体は勝手に動いて茂みを掻き分け声の主を探し出す。茂みの奥、明らかに人工的に作られた木の祀り台、そこに泣き声の主はいた。泣き腫れた目で鬼灯を見つめていた。
 風が吹く。キャスケットが外れて、横にポトリと落ちる。けれどそれを拾う事すらもお忘れて鬼灯は少女を見つめた。ぷっくりとした唇に酸化した血液をつけた少女は鬼灯を、正確にはその額を見てぽろぽろと涙を流し、そして笑った。

―やっと鬼様が迎えに来てくれた



「生贄と聞いた時はこのまま立ち去ろうと思ったんです」

 そう話す鬼灯はあの頃と違い髪も長くない。そして横に寝転ぶ少女もまた幼くはない。金棒を握るささくれ立った手で髪を撫でてもらいながらの寝物語のような昔話を少女はきょとんとした顔で聞いていた。その間抜けとも取れる顔に呆れとも取れる声色で少女の名を呼び、彼はそっと彼女の頬を包んだ。至近距離に近づいたかがちのような瞳と少女の無垢な瞳とがかち合い、交差する。

「そうしなくて良かったと今は心の底から思います。おかげで私は貴女を手に入れる事が出来たのですから」
「…鬼灯様、嬉しいの?」
「ええ。貴女を法を犯してまでそばに置き、こうして愛でられて嬉しいですし幸せですよ」

 ぽろぽろと涙を流して笑った少女を鬼は攫った。少女はその地に深く根付いてしまっていたが、鬼神の手にかかれば簡単に連れだす事が出来た。あの村があれからどうなったのかは分からない。ただあれからしばらくして鬼灯に生贄の話をした村人やその家族は続々と地獄へとやって来から、きっとそういう事なのだ。

「私も鬼様の贄に成れて良かった」

 あどけなさを残した顔で自身の死因を良かったなどと話す少女の体を抱きしめる。そっと背中に回った指に応えるべく頭部へ唇を寄せれば嬉しそうな笑い声が腕の中から聞こえた。

「鬼灯様は私だけの神様よ」
「もちろん、貴女は私の贄ですから」

 自身が捧げられた事により村は繁栄に導かれたと信じてやまない少女は、これからも終わりのない生を鬼の腕の中で過ごして行く事だろう。そして鬼もまた、少女に遠い昔の自身を重ねたまま慈しんで、何時の日かその身を喰らうのだ。そんな未来を互いに考える事もなく今はただ温もりに身を寄せた。

140915