ゆらゆらゆらゆらと水面が揺れるのが目に入った。薄い水色の綺麗に透き通った水だった。気がつくと丁は水中の中にいたのだ。とは言え、意識が覚醒していた訳ではない。ぼんやりと夢心地で薄らと開いた眼で水面を見つめていたのである。
 しかし一つおかしいのは、水中であるにも関わらず全く寒くない事だった。それどころかひどく暖かい。こんな温もりは生まれて初めて味わった。ひどく心地が良くて水中にもっと体を埋めようともがく。するとまた違和感を覚えた。声がしたのだ、頭上から。聞いた事もない優しい、女性の声が。

「目が覚めたのね」

 その言葉と共に意識が完全に覚醒する。水中にいたはずの丁は、何故か声の主の腕の中にいた。慌てて腕から抜け出そうとするも体に力が入らない。手を見れば、細く骨ばった小さな指先が目に留まる。ああ、そうだった。自分は生贄にされ、飢えた後に一人ここで死んだのだった。

「貴女は…黄泉からの使いですか?」

 首を曲げられないため顔は見えないが、彼女は丁では見た事もないような綺麗で複雑な作りの着物を着ていた。白地の薄手の布を幾重にも重ねた着物には丁の着物についた泥の汚れがついてしまっている。殴られるかもしれない。ぎゅっと握りこぶしを作り唇を噛み締めるも、与えられたのは堅い拳ではなく柔らかな指先だった。

「怯えないで、何も危害を加えるつもりはありません」

 白く何の傷もない指先が丁の汚れた頬を撫でた。甘い花の香りが鼻孔を掠めて、一瞬目蓋が重くなる。

「では、貴女は誰なのですか?」

 目蓋を叱咤して問いかけた声は思っていたよりもか弱い物だった。そして問いに対する答えもまた、ひどくか弱い。

「貴方が捧げられた神様です」

 ああ、そうなのか。疑う余地もなく丁は納得した。白いこの着物も、綺麗な指先も、花の香りも神様と言われれば全てに納得がいく。同時に彼は安堵した。良かった、神様の元へ行けたのだから自分は無駄死にではなかった。

「では神様、雨を…」
「降らせて欲しいのでしょう?生贄にされたのに健気な子ね」
「そうではありません。ただ私は無駄死にしたくないだけです」
「そう…でも雨が降らずとも決して無駄死になどではないわ」

 見てごらんなさい、そう言って彼女は丁の体を抱きなおした。ゆっくりと視界が高くなって彼女が立ちあがったのだと悟る。

「あ…」

 するとその時、空が突然に曇り雷鳴が轟いた。そしてぽつりぽつりと雨粒が空から降り注ぐ。雨だった。ここしばらく見る事の叶わなかった恵の雨が村へ降り注いでいた。視界を回せば喜んで外へ出る村人が目に入る。そして声がした。雨神様、感謝いたします。なんとまあ、

「現金ですね人間って」
「…っ、心を読んだのですか?」
「あら、同じ事を考えていただけよ」

 ざあざあと降り注ぐ雨に濡れる事もなく彼女は続けた。

「今まで祈りもしなかったくせに雨が降らないとなった途端生贄なんて差出して、降らせてやればこうして感謝をする…どうせまたすぐに忘れてしまうくせに」

 その言葉に丁は心底驚いて、同時に胸の高鳴った。神が、崇高たる神が村人相手に自分と同じ感情を抱き、憎んでいる事実に。
 この時丁は初めて彼女の顔を見た。薄い水色の、綺麗に透き通った水のような瞳が実に印象的な綺麗な女性だった。こんな綺麗な人が憎しみなんて汚い感情を持っている、それが丁を魅了してやまなかった。

「雨神様、私は貴女の生贄です。お好きなようにしてください」

 彼女になら食べられても、虐げられてもしても良い。嫌ではあるが我慢できる。だって食べられれば自分は彼女の血肉となり、虐げられたとしても一緒にいられる。
 けれど彼女はそんな丁の浅ましい欲を見透かしたように笑い、そっと彼の目蓋へ口づけた。指先を目尻へ這わせ吐息がかかるほど近い距離で声を発する。

「では可愛い子、私の眷属になってくれる?」



「なんて事があったんですよねえ」
「待て、は?じゃあお前雨神の眷属なわけ?」
「まあ一応、私鬼の方が強いですから」

 教え処で一緒になって以来つるんで来た悪友兼親友から聞かされた衝撃の事実に烏頭と蓬は心底驚いて見せた。対して暴露した本人は期待通りの反応に気を良くしたのか、珍しく楽しげに目を細めている。

「雨降らせられるのか?」
「少しだけなら、ただし疲れるのであまりしません」
「ちぇ、なら見せてくれって言えないなあ」

 こういうあっさりとした所があるのでこの友人たちと居るのは気が楽だ。丁こと鬼灯がみなしごであった事を告げた時も彼らは必要以上に同情する事も踏み込む事もなかった。今回だって鬼灯が「まあいいか」と軽い気持ちで話しただけであり、彼らが自分から首を突っ込んで来たわけではない。

「そろそろ帰ります、雨神様が心配するんです」
「過保護だよなあ、あの人」
「主って言うより母親って感じかな」
「…さあどうでしょうね」

 二人に見送られ、教え処を後にした鬼灯は急いで屋敷へ戻った。雨神の屋敷は驚く事に地獄にある。それは鬼でもある鬼灯が地獄に馴染み、教え処に通いやすいようにと配慮してくれたためであると彼は良く知っていた。
 雨神唯一の眷属である彼は屋敷へ入るとすぐに庭に面した縁側へ向かった。そこにはあの日から変わらぬ容姿で微笑む彼女が座っている。おいで、と手招きされてもう小さくはない体で彼女の腕の中へ収まった。

「貴女はお優しい」
「なあに藪から棒に」
「眷属とは名ばかりで私の事を縛ろうともせずに、ただ甘やかすだけ。もう少し私を使っても良いのですよ?でないと罰が当たってしまいそうです」
「私の眷属に罰を当てる神なら一度会ってみたいものだわ」

 くすくすと笑う雨神は、何時だって鬼灯を甘やかすばかりで何かを命じ、強制させた事は一度もない。そう言うと彼女は何時だって「貴方を無理やり眷属にしましたよ」とすまなさそうに話す。しかし鬼灯からしてみればそれは望んだ事であったし、現にそのおかげでこうして生活が出来ているのだ。感謝こそすれ、憎む気持ちなど生まれるはずもない。それに謝罪しなくてはならないのは自分の方なのだから。

「主様、今日は少し疲れました」

 甘やかされているだけの自分に心地よさを感じている時や、こうして嘘をついて彼女から唇越しに力をもらう時も彼は罪悪感を抱いている。

「貴方はとても甘えるのが上手ね」

 彼女は神だ、それでいて主君でもある。こんな浅ましい感情なんて全てお見通しなのだ。ふ、と目元を和らげて彼は彼女の腕の中で小さく背伸びをする。そっと自分から触れた唇は暖かく柔らかだ。彼女が与えてくれるそれより少しばかり長くそうしていたにも関わらず、嫌がるそぶりも見せず、むしろ嬉しそうに彼女は笑う。
 彼女の中での自分はあの日のまま成長していないに違いなかった。細く、頼りない子供でしかないから、こうして口づけても怒る事もしない。

「今日は一緒に寝ても宜しいですか?」
「ええ、もちろんです」

 それが嬉しくもあり、悲しくもある。何時だって男として彼女に見てほしいのに。口づけたのだって主や母に対してではなく、愛する女性に対してのソレのつもりであったのに。

「貴女ってやっぱり優しいけれど意地悪ですね」
「あらまあ」

 私はもう大人になりました。貴女にただ甘えていた丁ではなく鬼灯という男になったのです。何時だって組みしいて、思うままに白い肌に舌を這わせたいのですよ。
 そんな心の声を彼女はきっと分かっているはずだ。それなのにこうして笑って床を共にする事を許す辺り、彼女もまた顔に似合わず強かなのである。

140727