「おやまあ、これは何ですかね」

 三徹開けで疲れた体を寝台に投げ出した鬼灯は、布団の下に何やら柔らかい感触を感じて疲れた体を起こした。起こしたと言っても一度寝転んだ布団の魔力は恐ろしいもので、体全体を起こしたわけではなく、上半身を肘で支えた状態で彼はその柔らかな感触の横へ体をずらした。三日分の睡魔は急激に襲い来て、正直イライラも最高潮だった彼は、乱暴な手つきで布団を捲る。そして、自分の布団の真ん中で丸まる黒い小さな物体を見て冒頭の台詞を吐きだした。

 黒い物体は猫と同じくらいの大きさの動物だった。ふわふわとした毛皮を寝息で弾ませて、それは寒さからか身を捩る。あ、生きてる。元来動物好きな鬼灯は、眼の前に現れたモフモフに目が釘付けだ。もはや三徹の疲れもどこかへ吹き飛んだようにさえ感じられる。現に彼は現在寝台の上で胡坐をかいていた。
 試しに人差し指で、首を思しき所を擽ってみた。モフモフが身を捩る。可愛らしい。もう一度今度は両手で撫でてみる。モフモフが眠たそうに声を上げた。あ、こいつ雌だ。

「めっちゃ抱っこしたい」

 言葉になって漏れた願望通り、鬼灯は慣れた手つきでモフモフの両脇に手を差し込むとそのまま抱き上げて自分の腕の中に収めた。久方ぶりに触るモフモフに表情に出さずとも、胸が躍る。しかもそのモフモフが気持ちよさそうに自分へすり寄って来たとなれば、感激も一入であった。
 この何かも分からない動物は首輪もしていない。懐いて来たのも相なって、ふつふつとこのまま飼いたい欲が湧いてくるが鬼灯は補佐官として忙しい身。この部屋にずっと一人で置いておくのは可哀想だ。鬼灯は頭を振って、邪念を振り払いこのまま逃がしてしまおうと決心する。しかし、運が良いのか悪いのか、腕の中で健やかな寝息を立てていたモフモフが大きく欠伸をして目を覚ましてしまった。小さく暴れたそれに気が付き、視線を落とせば丸い両目と目が合う。

「……」
「………」

 何か言いたげな視線にらしくもなく鬼灯がたじろぐ。するとモフモフは小さな体を揺らし、鬼灯の腕から抜け出すと宙に浮いてしまった。どうやらこのモフモフ、ただの動物ではないらしい。ますます飼う訳にはいかないと息をついた時である。
 何やら唇に柔らかい感触がした。目を見開けば、至近距離には浮かぶあの黒いモフモフ。石のようにして固まる事数十秒。その間、鬼灯の頭の中では教会の鐘の音が鳴り響いていた。



「あれ、鬼灯くんなにその子?とっても可愛いね!」

 翌日、黒いモフモフを肩に乗せて出廷した鬼灯に閻魔大王は笑顔で彼の肩を指差した。指を指された鬼灯は、苛立ちを隠さずに指をあらぬ方向へへし折ると、苦悶の声を上げてのたうち回る上司を横目に挟みつつ「ああ」なんて呟く。

「昨日から飼う事にしました名前です。どうやら利口なようで邪魔はしませんので、連れて来ました」
「そ、そうなの…それよりワシの指大丈夫?折れてない?」
「オレテナイオレテナイ」

 鬼灯の言葉通り、名前と名付けられた黒のモフモフは利口だった。鬼灯が大王の横で亡者を裁く間は、一匹で大人しく執務室で待っていたし、彼が執務を始めれば机の隅で丸くなっていた。時折撫でれば、嬉しそうに顔を擦り寄せてくるのが実に愛らしい。
 その愛くるしさは次第に有名になり、翌日には名前見たさに茄子や唐瓜、果てにはお香までもが閻魔庁を訪れていた。まあ、仕事には支障をきたしていないようなので、注意する事はないのだが、正直な所名前をあまり他には見せたくない。肌身離さず傍においておきながら矛盾した話だが、噂を聞きつけて名前の飼い主が現れる事が鬼灯はとても怖かった。

 そして危惧したとおり、噂が広まって三日後の昼間。昼休憩に名前を抱いてお茶を飲んでいた鬼灯の元に、名前の飼い主だと現れる人物が現れた。

「今すぐ豚小屋に帰れ」
「豚小屋じゃねえし!ていうか勝手に僕の名前を抱くなこの鉄仮面!!」

 しかし誰がこの男を想像しただろう。大声を上げて奪い返さんばかりの勢いで詰め寄るのは、桃源郷に住む神獣・白澤である。彼は、薬の配達もないのに突然閻魔庁にやってくるとこう叫んだ。

『テメエ、僕の名前を返せ!!』

 もちろん鬼灯がそんな事を許すはずもない。もしこれが白澤でなく、他の者であったなら渋々でも返しただろうが、相手はあの色欲魔だ。こんな男が、こんなに可愛い名前の飼い主であるはずがない。
 鬼灯は、名前を庇うように体で隠すと汚物を見るような目つきで白澤を睨みつける。そもそもなんだ名前って。勝手に同じ名前つけてんじゃねえ。そんな意味も込めた睨みだ。

「大体貴方、僕の名前って証拠はあるんですか証拠は!」
「証拠はない!でも、そんなの彼女に聞けば分かる事だ!」
「はあ?名前は喋れませんよ!貴方、とうとう唯一の取り柄の脳さえおかしくなったんですか!?」
「うっせえ!いいから、僕にかしてみろって!」
「ちょっと!」

 言い合いに夢中になっている間に白澤が名前を無理やり奪い取った。それに舌打ちして取り返そうと腕を伸ばす。しかし、それよりも先に白澤は名前を宙ぶらりんに持ちあげて、まるで子供にでも話しかけるような口調で話しだした。

「名前、いい加減無視するのは止めて言葉を話してごらん」
「…対不起」

 すると、男二人と名前しかいないはずの室内に少女の声が木霊する。思わず伸ばしていた腕を止めて鬼灯は宙ぶらりん状態の名前を凝視した。間違いなく、今の声の発生源は、この名前だった。
 あまりの事態に珍しく唖然とする鬼灯と置いて、白澤は名前に何か一言二言話すと、腕を離した。そのまま地面に真っ逆様に落ちる名前にようやく鬼灯も意識が覚醒する。床に激突する前にと腕を伸ばすと、とんでもない事態が起こった。
 見る見るうちに名前の体が形を変えたのだ。短かった四本の足が細長くなり、あれほどまでに真っ黒だった体が白く、丸みを帯びて行く。そして次の瞬間、体を襲った衝撃に鬼灯は目を見開いた。自分の体に抱きつくのは、先ほどまで名前の姿をしていた真っ黒な目をした黒髪の少女であった。

「…名前、貴女一体…」
「対不起、ごめんなさい。騙す気はなかったの。でも貴方私のあの姿を見て、とても嬉しそうだったから言い出せなくて」

 女性らしい丸みを帯びた体は何も服を纏っていない。女性として大事な部分は足元にまで届く黒髪でどうにか隠れてはいるが目のやり場に非常に困る。特に最近は忙しさにそう言った事がご無沙汰だったのだ。普段ストイックな鬼灯でも、少し堪える。

「ダーッ!いい加減離れろ!名前はほら、これ着る!」

 だから白澤が名前を無理やり引き離して、自分の白衣を着せた事には素直に感謝した。距離を取った名前は不安げな顔で鬼灯を見つめている。動物の時も愛らしかったが、人間の形を取った現在も中々愛らしい。じっと見つめ返せば、名前が嬉しそうに笑う。それを見て胸の奥が少しキュンとした。
 けれどそんな二人の視線の送り合いも、白澤が間に割り込む事により引き離されてしまう。名前が見えなくなると鬼灯は舌打ちをして腕を組む。

「それで、説明してもらいましょうか?名前は一体なんなんですか?見たところ、動物でも無ければ、亡者でもないようですが」
「名前は、僕の妹だよ」
「妹?貴方、神獣でしょう?神獣に血縁関係なんてあるんですか」
「別にこれ以上はお前に説明する義理はないね」

 ふんぞり返る白澤に鬼灯の眉間に皺が寄る。

「私は白澤様の一部だよ」
「ちょ、名前!?」

 先ほどから思っていたのだが、この名前人間になると途端に空気が読めないらしい。

「一部とは?」
「白澤様が酔っ払って、禁術使ったの。そしたら私が出来たんだよ」
「おい、白豚。説明しろ」
「くそーっ」

 同時に分かった事。名前は頭があまりよろしくない。
 笑いながら腕にしがみついてくる名前をそのままに白澤の耳飾りを掴む。白澤は奥歯を噛みしめて、渋々話しだした。

「酔っ払った勢いとその時遊んでた女の子に煽てられて、分身を作る術使ったんだよ」
「分身にしては似ていませんが?」
「白澤様酔っ払ってたから間違えちゃったの」
「名前、言わなくていいから!」

 話を聞くにこうだ。つい最近、何時ものように女の子と遊んでいる内に酔っ払ってしまった白澤は彼女に煽てられるがままに分身の禁術を使用してしまった。けれど、酔っ払って正常通り頭が機能していなかったせいか、術式を間違えたようなのだ。その結果、女であまり似ていない名前が生まれたのだとか。

「それで、何故彼女が私の部屋にいたのですか」
「名前が地獄を見てみたいって言うから連れてきたらいつの間にかいなくなってたんだよ!」
「そうなのですか?」
「うん、疲れてふらふらしてたらいつの間にか鬼灯の部屋にいたの。お布団、気持ちよくてそのまま寝ちゃった」

 見上げてくる笑顔は明るく、嘘をついていない事が伝わる。この因縁の相手の嫌がらせでない事を理解した鬼灯が耳飾りを離すと、白澤は痛む耳を押さえながら距離を取った。

「ほら、名前もう充分だろう!帰るよ!」

 神獣の威厳もなく、涙目で叫ぶ白澤に腕にしがみついたままの名前が肩を震わせた。鬼灯の眉間に再度皺が寄る。名前が不思議そうに見上げていたが、あえてこちらに視線を返す事はしなかった。代わりに鬼灯はその鋭い視線を白澤へ向け、鋭い牙を覗かせる。

「帰る?どこへです?」

 片手は先ほどと同じ様に、名前を隠すためにその括れた腰に回される。白澤が声を荒げたが気にせずに鬼灯は続けた。

「名前から目を離したのは貴方の監督不行き。あまり治安が良いとは言えない地獄に一人にした挙句、この三日間連れ戻しにも来なかった貴方に彼女を連れ帰る資格はありません。よって、」

 腰に回した腕に力を込めて引き寄せ、倒れ込んできた名前の体を受け止める。

「名前はこのまま私が預かります」

 その言葉に名前は嬉しそうに声を上げて、対して彼女の大元であるという神獣は声にならない叫びを上げた。しかし鬼灯はそんな事は気にしない。まるで見せつけるかのようにすり寄ってくる名前の首を撫でながら彼は赤い舌を覗かせる。
 その凶悪な顔に白澤は抗議の声を上げたが、この少女運が良いのか悪いのか、それを見ていなかったようで満面の笑みである。そうして完全にモフモフ兼少女の癒しをゲットした鬼灯は、完全に打ちひしがれる白澤の横を勝者の余裕で悠々と歩く。もちろん名前の腰に腕を回したままで。敗者と化した白澤に残されたのは楽しげな分身兼妹分の「ばいばい」の言葉のみだった。

140422