昔、昔。神代よりも前の時代。人がようやく言語というものを習得した頃、天界の神々に或る一人の女神が加わった。その女神は幼く、また神々には必ずあるはずの神力もなく、まるで人間の少女のようであった。何もできずただ周りの神から蔑まれて生きる女神を天帝は大層憂いた。そして一計を案じたのである。

―お前をしばらく宮の奥へ幽閉しようと思う

 幼い女神は言葉の意味さえも分からず、ただ天帝の言葉に頷いた。
 それが全ての始まり。吉兆の神獣白澤の知る名前という女神の始まりの話である。

 白澤が名前の事を知ったのは、ほぼ成りゆきであった。その時懇意にしていたのが天界の天女であった事と、その天女が神力を持ちながらも人間のように噂好きであった事。その二つの要因が彼の耳に天帝に幽閉された女神の存在を知らせたのだ。
 神々にめっぽう甘く、平等であるはずの天帝がわざわざ自身の宮の奥深くへ幽閉したとあれば、それほどまでに大事にする理由があるに違いない。吉兆の神獣であると同時に知識の神でもある白澤は探究心のままに天帝の目を盗み、その奥へと入り込んだ。

―こんな所で何をしているの?
―何もしていません
―それはつまらないでしょう、おいでよ、外見せてあげる

 ほんのちょっとした出来心。細く白い腕を引いて外へ連れ出したら一体どんな表情を見せるだろうかと興味が湧いた。それだけの話だ。
 それでも名前は幼い表情をパッと明るくさせて、それから落ち込んだようにして、最後には縋りつくように白澤へと懇願した。

―もう少ししたら天帝が会いにきてくださるのです。だからまた今度、今度は外へ連れて行ってくださいますか?
―うん、いいよ

 彼女の頭を撫でながらそう頷いたくせに、あれから数千年が経った今もその約束は果たせていない。



「呆れた、ただ貴方の最低な過去話を聞かされただけじゃないですか」

 全てを絞り出すように語り終えた白澤へ投げつけるように言葉を吐いて、鬼灯は背もたれに背中を預けた。指を腹の上で組んで呆れた視線も向けてやる。白澤の自身に似ていると言われる顔が一瞬赤く染まった。珍しく怒っているようだ。

「確かに僕は最低だ。長い年月の末、彼女の事を忘れ去っていたんだから否定はできない。でもお前も…なんだよその反応。他に何か言う事あるだろう」
「貴方が私に何を言わせたいのかは何となく予想がつきますが、口に出す気はありませんよ。ああ、でも一つだけ貴方に言っておきたい事があった」

 鬼灯は背もたれから背中を離すと背筋をピンと伸ばした。そこにあるのは常に目にする凛とした鬼神としての顔と、同時に一人の鬼としての怒りを宿した瞳があった。

「天帝が神々に平等?大事にしている?違うでしょう」
「………」
「貴方だって分かっているはずです。天帝は彼女を大事だから閉じ込めたのではない。臭い物には蓋をする…今回の事だってただ余所者を体よく排除しただけに過ぎませんよ」
「はっきり物を言うよな、お前って」
「回りくどい事は症に合わないんです」

 ふと脳裏に離れの一室が浮かんだ。広い寝台に一人寝かしつけた女神の横顔が、薄らと目蓋を持ち上げるのを確かに彼は空目した。
 ああ、くそ。寝不足が祟って痛む目蓋を二本の指で押さえて鬼灯は、重たい体を椅子から持ち上げる。そのまま来た時と同じように白澤の横を通り過ぎれば、神獣はちっと大きな舌打ちの後に鬼灯の背中へ言葉を投げつけた。

「ようやく外へ出られたのに、まさかこんな地獄だっただなんて彼女思ってもみなかっただろうね」
「たとえ地獄でもあちらよりは随分とマシかと」

 確信に迫った言葉を吐いて振り返った鬼の双眼は相変わらずの冷徹さを宿している。いけすかない奴だ。ふんと鼻を鳴らして視線を逸らしている内に、鬼灯は薄暗い廊下へと消えて行ってしまった。



 いつの時代も人間も、神も変わらない。
 ただ神力がなかったと言うだけで、ただみなしごであったと言うだけでこちらの想いも知らずに易々と贄として捧げてしまう。
 白澤から名前の事を聞いた時に僅かではあったが高揚した。哀れむよりも先に浮かんだ感情に内心自身は歪んでいるのだなと思いながらもその高揚は隠せなくて、白澤からの嫌みに真っ当に返してしまった。

 地獄でもあちら―天界や現世よりは随分とマシ。
 鬼灯には友がいた。名前を付けてくれた閻魔だっていた。そのおかげで今はこうして多忙ながらも満ち足りた毎日を過ごせている。ならば、自身の妻となった女神はどうか。彼女の真の想いなど分かりはしないが、きっと天界よりはマシなはずだ。現に彼女はこうして偽りとしか呼べない愛情であっても、幼子のように求めてくる。対して鬼灯は、求められる愛情を少しづつ与えてやるのだ。

「いけませんよ、こんな夜遅くに部屋を抜け出しては」

 必死になって抱きついて来る体を片手で受け止めてやり、そのまま抱きあげれば自然と目に入ったのは不安げに揺れる双眼だった。鬼灯を見ているようでいてどこか遠くを見つめているようでもあるその瞳にもう片方の腕で蓋をしてやる。
 寝台に横たえた体は僅かに震え、目蓋の上に乗せられた鬼灯の腕へ爪を立てた。

「こういう、部屋に一人で置かれるのは、いや」
「ではどうします?私はもう少し仕事を…いえ、今日は止めておきましょうか」

 腕に走るピリッとした痛みに眉を顰め、そこへ視線を落とせば微かに血が滲んでいるではないか。残る爪跡にあの初夜の事を思い出し、彼は一人微笑した。表は相変わらずの無表情であったが、内では確かに感じる高揚のままに口端を持ち上げていた。

「寂しがりな妻を慰めるのは私の役目でしょう?」

 地獄と天界との繋がりを強固にするための道具。だから偽りであっても愛せると、その想いは今も変わりはない。けれど、こうして確かな欲を持って夜着に浮き出る体の線をなぞる指先に恥じらう表情を愛おしいと思っているのも本当で。
 これは境遇の似た者同士の傷の舐め合いであり、また自身がかつての友や名付け親のようになれる優越感に浸っているだけかもしれない。脳内に浮かぶ様々な思考を高揚で呑みこんで、彼は震える体へ手をかけた。


 女神は、数千年の間一人の神獣を待ちました。
 けれど神獣は約束を忘れ、現れる事もなく女神は天帝の思惑を知らぬままに鬼の元へと嫁ぎ、偽りであれど確かな幸せを手に入れました。
 幼く、神力のない彼女ですが本当は全てを知っているのです。神獣が約束を忘れていた事を悔いている事も、鬼が偽りの愛情を注いでいる事も。けれどそれを悲しいとは思いません。女神には確信がありました。何時の日か、自分は鬼の子を宿し、その時鬼は真の意味で自分を愛してくれるだろうと。
 そんな未来を夢見て、彼女は鬼の背に爪を立てたのです。

141102