「そう言えば兄さん、昨日一緒にいた女の人って彼女?」

 そんな年頃の妹の一言からこんな大騒動に発展しようとは、この時俺は微塵にも思わなかったと、この数時間後やけに悟った目をした多喜(千三百歳)は語る。

 多喜は質問の意味を理解するのに暫く時間がかかった。その間黙って父親の女版と噂される妹の顔を見つめていた彼は、向かい側の父のほう…なんていう低い声に現実へ引き戻された。

「ち、違う!あの人はただのお客さんだ!」
「そうなんですか、それにしてはやけに兄さん鼻の下伸ばしてたけど」
「それは詳しく聞きたいですね。喜子、話してごらんなさい」
「はい、お父さん」
「お父さんまでノるな!!」

 容姿は父親に瓜二つであっても、性格は母親似である多喜が、ドS冷徹と名高い閻魔大王の第一補佐官と、その女版に敵うはずもない。大声で抗議はするものの、現在唯一彼の味方になってくれそうな母は入浴中である。息子と兄の大声に二人はそっくりな顔を同じ様に歪めて耳を押さえた。

「「うるさい」」
「もうこの二人嫌だ…お母さん、早く上がってきてくれよ…」
「あ、ほらやっぱり」
「は?」

 合点がいったとでも言わんばかりの声色に反応を返したのは多喜だけでなく彼らの父、鬼灯も同じであった。彼は鋭い眼差しを僅かに和らげて娘を見る。喜子はポンと手を叩いて小さく首を傾げた。少し狙った感じがして多喜は顔を顰める。

「昨日兄さんと一緒にいた人、多分鬼だと思うんですけど」
「それで」
「お母さんにそっくりだったんです」

 瞬間、部屋の空気が三度ほど下がった。
 もちろんその原因は鬼灯である。平然とする喜子と違い、もう小さくはない体を丸めて多喜は父を盗み見て、後悔した。鬼灯は徳利を指圧で握りつぶし、まるで汚物を見るような眼差しで息子を見下ろしていたのである。

「以前から薄々気づいてはいましたが、まさかその年になってマザコンとは…我が息子ながら嘆かわしい…」
「ち、違います!あの人はたまたまお母さんに似てただけ!そう言った目では見てませんから!」
「全力の否定が逆に疑いの目を深める事もある」
「喜子は黙ってろ!」

 思わず強く言ってしまってハッとするが、彼の妹はそんな事を気にするたまではない。むしろ鼻で笑い飛ばし、彼女は豪快に玉露を煽った。まるで酒でも飲んでいるかのような豪快な飲みっぷりはまさに男顔負けである。こんな所まで父親に似なくていいのに…嫁の貰い手なくなるぞ。そう心の中で呟いて清酒を煽る。喉の焼ける感覚に多喜は大きく息をついた。

「ご心配されずとも、嫁には行くつもりですから」
「ぶふ!」

 極楽満月二号店をオープンさせて、一人暮らしを始めてから早十数年。その間に妹はエスパーの能力すら身につけたらしい。
 酒を吹き出せば、汚いと高く小さな声が聞こえる。何時もならここで鬼灯が張り手の一つでも飛ばすのだが、今の彼の目にはそんな息子の失態は映っていないようである。鬼灯は徳利の次にお猪口を粉砕すると、茫然と愛娘を見つめた。

「嫁?そんな話聞いていませんよ!」
「落ち着いてくださいお父さん。私も年頃ですよ、そう言った約束をした相手くらいいます」
「ち、ちなみに相手は…?」

 粉砕されたお猪口から零れた酒を布巾で拭きながら、茫然とする父親に変わり多喜が問いかける。すると喜子は、肩を竦めて小さな唇の端を持ち上げた。

「白澤様」

 聞くんじゃなかった。
 怒りに震える父の馬鹿力により、机にヒビが入るのを目撃した多喜が後悔すれど一度聞いてしまった内容は忘れるには無理な話である。錆びついた機械さながらの音を鳴らし、多喜は沈黙する鬼灯の肩へ手を伸ばす。宥めなければと思っての行動であったが、彼の手がその肩に触れるより先に鬼灯はゆらりと立ち上がってしまう。
 お、父さん?恐る恐ると呼びかけるが今の彼は、『愛娘をあの色豚に取られかけ、怒り狂う父親』である。昔ならまだ違ったのかもしれないが、成長しきった息子の呼呼びかけに反応するはずもなく、愛用の金棒を掴むと何故か風呂場へと歩いて行く。そして数秒後、母の甲高い悲鳴と父親の怒りに満ちた叫びが居間にまで響き渡った。

「きゃー!な、なんなんですか!?ていうか、何でこんな夜中に金棒なんて担いでるんですか!!」
「早く上がりなさい!今日こそあの白豚を滅しに行きますよ!!」
「はあ!?なんで白澤様が…」
「いいから早くなさいと…ああ、じれったい!」
「ちょっ、なに勝手に抱き上げてるんですか!?うわっ、体拭かないでください!」
「今更恥じらう間柄でもないでしょう!それに今、そんな気はありません!」
「だからってちょっと!もういい加減にしてください!!」

「お父さんたちって何時まで経っても若いですよね」
「お前な…」

 必死に抵抗する母親と、怒りで頭がいっぱいな父親は気づいていないのだろうが、子供としてはあまり聞きたくはない会話が所々に含まれている。
 居た堪れなさに小さくなる兄を尻目に、女は達観していると言うべきか喜子は自分のペースを崩す事なく冷めた玉露を飲む。対して多喜はこれ以上酒を飲む気にもなれずそうかよ…とだけ呟いて机に突っ伏した。このまま寝てしまいたいくらいだが、兄として真剣に聞いておかねばならない事がある。彼がのろのろと顔を上げると喜子がその顔を覗きこんだ。

「で、本当に白澤さんとそんな約束したのか?というか、お前あの人の事好きなのか」
「…うーん」

 多喜の予想ではこの妹はすぐに頷くはずだった。けれど予想は大きく外れ、彼女は顎に手を添えて首を傾げている。時間に換算して一分と二十秒。たっぷりと間を置いて、喜子は小首を傾げて艶やかな唇を持ち上げた。

「さあ、どうでしょう」

 あ、そう―

 もうこれ以上は聞かないでおこう。触らぬ神に祟りなしならぬ触らぬ妹に祟りなしだ。今度こそ意識を飛ばしてしまおうと机に突っ伏すと、廊下の方が騒がしくなる。時折助けを求める母の声がしたものの、すでに顔を上げる気力もない多喜は玄関の閉まる音に片手を振った。
 しかし彼は後にこの行動を後悔する事になる。翌日、家を出て薬局へ戻ると、昨晩夫婦そろって乗り込まれてボコボコにされた某神獣が待っていた。白澤はまだ赤い頬を撫でながら多喜の定位置である椅子に腰かけて恨めしげにこちらを見る。

「名前ちゃんにまで殴られた」
「それはご愁傷様です」

 あの気が弱く、どちらかと言うと優しい母がまさか自分から白澤を殴ったとは驚きだが、どうせまたこの男が変な事を言ったに違いない。
 勝手にそう結論付けて多喜は白澤の横を通り過ぎて自室へ入る。極楽満月二号店の開業は午前十時で現時刻は午前九時過ぎ。あと一時間で薬の用意をしなければ、と二日酔いでふらつく頭を掻いて、クローゼットから白衣を取りだした。

140423