以前から分かってはいた事だけど、あの人は見目がとても良いから女性から人気がある。そのくせしかも地位もあるものだから、結婚した後もあわよくばと思っている女性が沢山いる事だって知っていた。まあ、仕方ないですよね。自分から姿を消したくせに欲しかった言葉も貰えて妻として一緒に居られるだけ、私は幸せなのだから。それくらいは理解してなんて事ないように振舞わなければ。そう思っていたのに、 「す、好きです!奥さまとお子様がいる事は分かっていますが、一夜限りでも構いません!私を掃け口に使ってください!!」 いざその場面を目にするとどうしようもなく胸が痛んだ。 (多喜を行かせなくて良かった…) 何時もならお使いは多喜に頼むのだけど、どうしてか今日は私自身が行こうと風呂敷を持って閻魔庁に来てしまった。告白されている父親の姿を子供には見せたくないという母親の勘かしら。どうしても角から出る勇気はなくて、私は風呂敷をぎゅっと握りしめて俯く。心臓が、煩い。 先ほど一瞬見えた彼女は可愛らしい鬼女だった。ピンク色の真新しい着物を着て、今日のために頑張ったのだろう綺麗に化粧をしていた。一夜限り、なんて不毛な関係を求めるほどに彼が好きなのか…とぼんやりと思う。そして彼は、この申し出を受け入れてしまうのだろうかとも。嫌だ、とは思う。彼が他の女性に触れている所なんて想像しただけで、気が狂いそうだ。けれど私は正直、その手の事で満足させている自信はない。もし、このまま頷かれたなら知らないふりをしてそのまま去ろうとそう決めた時だった。 「反吐が出る」 低い、怒りを押し殺した声が歩み出そうとしていた足を止めた。 そっと角から顔を覗かせる。彼の影になってあまり良くは見えないけれど彼女は茫然として彼を見上げていた。頬が引き攣っている。どんな顔をしているのかは分からないけど、恐ろしいほどに今の彼は気が立っている。 「貴女、分かっていると言いましたよね」 止めなければ、と頭の中で警報が鳴っていた。けれど私の足は動かない。 「何を分かっていると言うんですか?私がどんな想いで彼女達を繋ぎとめたと思っているんですか?」 「ひ、ひい」 「分かっていると言うのなら、一夜限りなんて世迷言出て来るはずがありませんよねェ?」 ゆっくりと女性に歩み寄る背中。その手には金棒が握りしめられている。嫌な予感を感じて、ピクリと彼の腕が動いた瞬間、私は角から飛び出してその腕を引っ張った。 「鬼灯様!」 自分でも驚くほどに大声が出た。今にも振り上げそうだった腕をその場にストンと落とし、鋭い二つの視線が私へ向く。ああ、これは彼女が怯えるのも頷ける。膝が笑うのを何とか耐えて、強く腕を引いた。早く私を見てほしい。そんな想いが通じたのか、鬼灯様は数秒私を見つめ、強張っていた目元を緩めた。唇が私の名前を紡ぐ。 「貴女も、早く行ってください」 それにほっと息をついて茫然としたままの彼女に声をかければ、ハッとしたように意識を取り戻し、私を一睨みすると反対側へと駆けて行った。 可哀想な事をしてしまったと内心謝罪をしていれば、大きな手が私の腰に回る。そのまま引き寄せられ、堅い胸板に鼻が当たった。手を添えれば、伝わってくる体温に先ほどの胸の痛みが和らいで行くのを感じた。 「何時から、いたんですか?」 「あの女性が告白した辺りからです」 「始めからじゃないですか」 頭上で大きなため息が落とされ、苦笑する。すると腰に回された腕に力がこもり、ますます体が密着してしまった。押し付けられた顔が少し痛む。けれど私も今は離れたくなくって、誰か来てしまうかもしれないと言うのに彼の背中に腕を回して抱きしめ返す。 「嫌な思いをさせました」 「いえ…その、彼女の言い分も分かる気がしますし」 「なにを、」 「その…満足、してらっしゃらないでしょう…?」 ただの新婚夫婦であるならば、求められるがままに与える事も出来るけれど、私達は普通ではない。多喜にいる日何て触れる事すら出来やしないのだ。きっとそれはまだお若い彼からすると不満だろう。それが分かっているから、私は先ほど帰ろうとした。胸の痛みが襲い、ギュッと目を閉じる。鬼灯様はしばらく私を見下ろすと、低い声で私の名前を呼んだ。 「いつ、私が満足していないと言いましたか?例え貴女を抱く事が出来ずと、こうして抱きしめられるだけで満ち足りていると言うのに」 「本当ですか?」 「当たり前でしょう。もし、そんな事にも理解のない夫だと思われていたなら、今すぐその認識を改めなさい。屈辱です」 彼女に対するそれとは比べ物にならないほどに弱いけれど、それでも怒りの籠った声色に違いなかった。今更に自分の失言に気がつけど、怒りがそう簡単に収まるはずもない。そっと胸へついた手を痛いほどに握りしめられる。 「以前私は言葉が足らず、貴女に不安な思いをさせてしまいました。もうあんな事はこりごりです」 「痛い、です…」 「愛していますよ、貴女が望むなら何度でも言いましょう。ですからもう二度とこのような事は言わないでください」 「わかり、ましたから…」 強く握りしめられていた手は白く変色していた。痛む箇所を擦りながら少し距離を取れば、彼は大きくため息をついて額を押さえた。良く見ると顔色が優れない。ああ、そうだ。私は二日ほど帰って来ない鬼灯様を心配して閻魔庁まで来たのだった。放り出していた風呂敷を開いて私は中から冷えた手ぬぐいを取りだすと、彼の頬に当てた。 「冷たい…」 「私も、嫌な思いをさせました…でもその、あんな事を言ったあとでは信憑性もないかもしれませんが、私は貴方が他の女性に触れるのは、嫌です」 「名前…」 「さっきは、その嫉妬しました」 言い終えて自分がらしくもなく大胆な発言をした事に気がついた。ボンと音が出そうなほど顔が熱くなって慌てて離れようとする。けれど彼はそれよりも先に私の手を掴むと、なんという事でしょう。彼は私の手首へ唇を寄せた。 「それは良い事を聞きました」 「あ、の…鬼灯様?」 「明日はちょうど休みをいただいたのです。多喜は学校がある事ですし…満足させていただけますね?」 そんな目で見られては拒否などできるはずもない。熱い舌の感触を腕に感じながら私は視線を逸らして小さく頷きを返した。 140420 |