地獄に慣れたせいでか、久々にやって来た現世の空気はまた悪くなったように感じられた。名前は久々に袖を通した洋服の裾を握りしめてふうと息を吐く。
 お香の粋な計らいで一日、夫婦水入らずで過ごすのはいいがわざわざ現世で、しかもこんな人の多い街のど真ん中で待ち合わせする意味はあるのだろうか。
 彼女はきょろきょろと鬼灯の姿を探す。身長の高い彼はすぐに見つかった。噴水の前でホモサピエンス擬態薬を飲んだ鬼灯の頭には現世に来る度お馴染みのキャスケットはなく、彼は不機嫌そうな顔を全て晒して立っていた。小走りに駆けよれば、鋭い双眼がこちらへ向けられる。

「お待たせしました」
「ああ、随分早かったですね」
「待ってると思うと、ゆっくり支度もしていられなくて」

 そう、今日の事は今朝初めて聞かされた。お香は昨晩の内に鬼灯に話をつけていたそうなのだが、彼はすっかり名前に伝言するのを忘れていた。そのためいきなりデートしますよと言われた名前は慌てて用意をしてここまで来たのである。
 雪鬼の母親に良く似た容姿の名前は角も小さいため、帽子を被る必要も薬を飲む必要もなく、格好は一般的な人間の女性と何ら大差ない。春色のひざ下丈のスカートに白のブラウスとカーディガンを合わせた彼女はふうとため息をついて夫を見上げた。
 元が良いためか、黒のジャケットに同色のズボンを合わせたシンプルな格好だと言うのにとても素敵に見える。名前が駆け寄ろうとした時には彼を狙った女性たちがこそこそ話をしていたほどだ。

「ほら、行きますよ」

 そんな女性に人気な夫を持った事に苦笑していると当然のように左手を差し出されて名前は面喰う。けれどそれも一瞬の事で、今日がデートである事を思い出すと気恥ずかしそうに彼の手に自分の手を重ねた。そのままギュッと握りしめられたかと思えば、指と指が絡み合う形にされて彼女は頬を真っ赤に染めた。現在自分がしているのは俗に言う恋人繋ぎだった。

「今日は一日敬語なしですよ」
「は、はい」

 もうさっそく敬語を使った名前に鬼灯は呆れ顔で小さなため息をつくと、彼女の腕をひいて歩き出した。目的地がどこなのかも聞かされぬまま小走りに後を追う名前は今日一日の事の不安でいっぱいいっぱいだ。



「うわあ、しばらく来ない間に流行も変わるのね…」

 場所を待ち合わせした公園から大型ショッピングモールへ移した鬼灯は、そんな名前の言葉に足を止めた。彼女の視線の先には女性向けのファッションショップのマネキンがあった。肩を露出した見るからに若い女性をターゲットにした服装にげんなりとした様子で鬼灯は首を振る。とてもじゃないが名前には似合わない。

「貴女、あんなの着たいんですか?」
「いやあ、さすがに年齢的にアウトでしょう」
「そんな事はありません、人間年齢で行けばギリギリってとこですよ。まあ似合うとは思いませんけど」

 名前の外見年齢は鬼灯と大差ない。二十代にも見えるし、三十代と言えば若いのねえと納得されるだろう。フォローに名前は苦笑しながら次の店へ視線を向けた。
 アクセサリーショップである。若い女性も多いが、中にはカップルもいて男でも入り易い雰囲気がある。

「見ますか?」
「いいんで…じゃない、いいの?」
「どうぞ、付き合いますよ」

 店内に入ってすぐ名前はあ、と声を上げて鬼灯の指からすり抜けた。一気に寂しくなった手を一瞬見下ろしてその背中を追う。彼女は他の客に混じりながら一つの髪留めを見ていた。

「それが欲しいんですか?」
「うん、とても綺麗…」

 細やかな細工の施された髪留めは男の目から見ても綺麗な物だった。きっと着物姿の名前がつけても似合うだろう。
 この髪留めをつけてはにかむ名前の姿を想像している内に腕は勝手に動いた。うっとりと眺めている名前の手からそれを取り上げて、彼女が何か言う前に会計に持っていく。細やかな細工が施されているだけあって少々値は張ったが、これくらいならば痛くも痒くもない。
 袋に入れてもらった髪留めを手渡された名前は、茫然と鬼灯を見上げて恥ずかしげに頬を染めた。

「ありがとう、嬉しい」

 それにこのくらいで名前がこんなにも喜んでくれるなら、いくらでも買ってやりたいと思うのである。

「さて、そろそろ昼でも食べますか」
「あ、その前に私お手洗いに」
「なら、ここで待ってますよ」

 それから暫く経つと時刻は昼時になり、腹も空いた。レストラン街へ足を踏み入れれば良い匂いが鼻孔を擽る。
 家族連れの客たちを微笑ましげに眺めながら化粧室へ駆けこんだ名前は、鏡の前で先ほど買ってもらった髪留めを取りだすと頬を緩ませた。せっかく買ってもらったのだし、すぐにでも見せたいと思う女心だ。下ろしていた髪を緩く纏めて留める。照明の光を反射してキラキラと輝くそれに満足して彼女は鬼灯を探す。
 すると待ち合わせの時と同じく長身である鬼灯はすぐに見つかった。ただ朝と違うのは、彼の周りの女性たちが彼を見て小さく黄色い声を上げている事だ。
 知らず内に名前は唇を横一文字に結ばせた。ヒールでカツカツと音を立てながら彼女たちの横を通り過ぎ、鬼灯の腕に自身の腕を絡ませる。そして彼女は見せつけるように身を寄せると満面の笑みを浮かべて見せた。

「お待たせ」
「おや、つけたんですか。良く似合いますよ」
「ありがとう、貴方が買ってくれたからだわ」

 なんて口では言ってみせるが、正直な話羞恥心的な意味でもう限界は近かった。心なしか笑みも崩れている気がしないでもないが、あの女性たちがまだこちらを見ている手前表情を変える事も出来ない。
 しかも名前の意図を汲んでの行動か、鬼灯は名前の腕にもう片方の手を添えて顔を寄せてくる。至近距離で見る見慣れたはずの端正な顔に頬がひくつくのが分かった。

「随分と可愛らしい嫉妬の仕方ですね」
「分かってたの…」
「ええ、貴女が腕を組んで来た辺りから。楽しませてもらいましたよ」

 名前の存在に諦めをつけたのだろう、いつの間にかあの女性たちは姿を消していた。ほっと息をついて名前は腕を解こうとする。だが、重なったままの手がそれを拒む。さすがにもう限界点は突破済みで、とりあえずは一度離れたいと名前は顔を上げる。しかし、そうした瞬間至近距離にあった顔が限りなく近くなり、唇に柔らかな感触がした。なにをされているのかくらい直ぐに分かる。一気に全身が熱くなり、顔が離れると名前はすぐさま腕を解いた。数歩距離を置いて呼吸を整えようと謀るが、突然の事に驚いた体はあまり言う事を聞かない。数秒前まで触れていた唇をただ凝視すれば鬼灯は何時もの無表情を崩す事もなく首を傾げた。

「そこまで恥ずかしがりますか?」
「がります!公衆の面前ですよ!!」
「名前、敬語」
「そんな事気にしてられません!ああ、もうお昼はいいですから離れましょう!ね?」

 段々と一部始終を目撃していた周りの客からの視線が気になり始めた。名前は鬼灯の腕を掴むと急ぎ足でその場を後にする。後ろをついてくる鬼灯の視線が赤くなっているだろう首筋に集中しているのを感じて名前は髪を結ってしまった自分を呪った。
 せっかくお香が気を使ってくれたのに、これでは何時まで経っても顔色が戻りそうにない。

140506