こんにちは、今年閻魔庁に就職したばっかの新卒です。匿名希望ですが、色々と困ると思うので俺の事はAとでも呼んでください。実は今日、こんな手紙を書いているのはとあるトラウマを吐きだしたいからなのです。
 思えば、あの頃の俺は寺子屋をトップで卒業して、新卒早々閻魔庁に配属された事に天狗になっていたんです。だから仕事を定時で終えて、寮へ帰る途中閻魔庁の前であの女性を見た時、自信満々に話しかけてしまったんです。

「こんにちは、観光ですか?」

 彼女は色がとても白く、角も見当たりませんでした。実物を見た事がありませんでしたが、きっと雪鬼だなと思ったんです。俺の方へ振り返った彼女は遠目で見るよりも素敵で、艶やかな髪を揺らして困ったように頬笑みました。

「人を待っているんです」
「えーそうなんですか。暇なら八大を案内しようと思ってたのに」
「あの、私別に観光じゃ…」
「え?なら獄卒ですか?なにか報告とか」
「えっと…」
「それなら閻魔庁内を案内しますよ!任せてください、広いですけどもう俺にとっては庭みたいなもんですから」

 庭なんて嘘です。本当は書庫の場所すらあやふやでした。
 それでも、久々に見つけた好みの女性を逃したくなくて俺は格好つけていたのです。細い腕を取った俺に彼女はとても焦っていました。白い頬を真っ青にさせて足を踏ん張ります。でも俺も必死でしたから。男の力で彼女の腕をひいたんです。そしたら、

「きゃっ」

 可愛らしい悲鳴を上げて彼女の体が俺に倒れ込んで来たんです。この瞬間の俺の歓喜が分かりますか!?もう柔らかくって、しかも良い匂いがして!まさに今なら天国まで全力疾走できそうだと思いましたよ!
 内心ガッツポーズを決めていた俺は周りが見えていませんでした。いつの間にかギャラリーが出来ていて、その中の数人が彼女の顔を見て顔色を青くさせていた事にも、そしてあの方がこちらへ向かっているという事実も、見えていなかったのです。

「どうですか?俺と今夜にでも、」

 天狗な俺は固まってしまった彼女の肩に腕を回して顔を覗きこみました。顔色を真っ青にさせた彼女は震えていました。どうやら押しに弱いようだったので、これは行けると俺は畳みかけようと、しました。

「名前」

 俺が彼女の白い頬に唇を尖らせた瞬間、背後から耳心地の良い低い声が聞こえました。ん?と動きを止めれば彼女が顔を上げて声の主を呼びました。鬼灯様、と。
 ゆっくりと草履が土を踏む音が近づいて来て、動けない俺の肩へ大きな手が乗りました。想像以上に冷たい手です。俺は恐る恐ると振り返りました。そして背筋が凍りつきました。

「その手を退けていただけますか?」

 般若です。般若が俺を睨みつけていました。

「は、はいいい!!」

 名残惜しさなんて感じる暇もなく、急いで彼女の肩から腕を離せば、鬼灯様は瞬時に彼女の腕をひいて御自身の後ろに隠されました。首だけ後ろを振り向いて一言二言声をかけていました。多分、大丈夫かとかどこ触られたとかそんな所だろうと推測します。
 彼女の無事、と言っては語弊がありますがまあそんな所を確かめた鬼灯様は俺の方へ向き直ると低く、それはもう地を這うかのような声で仰いました。

「今夜、私の妻とどうしたいと?」

 彼女に向けていたものと違う般若の形相で鬼灯様は俺に威圧をかけて来ました。俺は返事も返せず、その場に土下座を決めました。すいませんでしたああああ!!俺の叫び声はきっと法廷まで響き渡った事でしょう。
 けれどこれで許されるなんて俺は思っていませんでした。まさか彼女が噂の鬼灯様の奥さまだとはまさか夢にも思わず、あんな行為をしてしまったのですから。ちなみに噂と言うのは、あの鬼灯様が愛妻家でかつ子煩悩だとかいうアレです。
 地面に額を擦りつけて土下座を決める俺に何人か同情してくれていたと思います。だって空気がね、もうね、生温かかったんです。するとこの沈黙を鬼灯様の奥さまが破りました。

「あの、私大丈夫ですから、ほら多喜も待ってますし急ぎましょう?」

 救世主でした。彼女が魔王に喰われそうになっているモブAを助けてくれる救世主だったのです。彼女の優しさに涙の池が出来かけた時、頭上から色気を孕んだ大きなため息が聞こえました。
 びくつく俺の横を足音が通り過ぎます。はっとして顔を上げれば、すれ違いざまに鬼灯様が冷たい眼差しを俺へ向けてこう言い放ちました。

「次はありませんから」

 これが俺のトラウマです。あの時の鬼灯様の顔は今でも二日に一回のペースで夢に見ます。ここ最近ではそれがストレスになり、髪の毛が抜けおちて若禿げになりそうです。と言う訳で閻魔様、この手紙をお読みになった上でどうか哀れな俺をお助けください。ほら、今まさに般若が俺の背後に迫ろうと…

 その先は読む事が叶わなかった。血で汚れた便箋をぐしゃりと握りつぶし閻魔大王は強張った顔で己の補佐官を見る。常の通り熱心に仕事に取り組む、彼の頬は普段よりも血色が良く心なしか表情も晴れやかだった。

「ああ、大王。昨日一人新卒が辞めたので新しい人員を補給しようと思うのですが」

 鬼灯の言葉に頷きを返しながら閻魔は今頃、病院で治療を受けているであろうAへ合掌する。鬼の宝に手を出したのが運の尽き。どうか自力でトラウマを克服し、教訓を生かして幸せな人生ならぬ鬼生を送ってください。

140504