「ねえ名前ちゃん、僕と一緒に桃源郷に来ない?」

 今日はとても良いお天気だったから外に出たら白澤様に会った。最後に会ったのはひと月以上も前だったから、嬉しくて彼の口車に乗せられるがまま入ったのは道端に新しく出来た甘味屋。運ばれてくる甘味を前に、目を輝かせる私に白澤様はお茶を飲みながらの冒頭の一言を吐いた。

「はい?」

 やけに真剣に聞いてくるものだから驚いてしまい私はクリームの乗ったスプーンを落としてしまう。カランと高い音を立てて床に転がったそれに慌てると気の利いた店員さんが新しいスプーンを持ってきてくれた。恥ずかしさに消えたい気持ちになりつつそれを受け取り、今度は落とさないよう慎重にクリームを口に運ぶ。口いっぱいに広がった甘さに頬が緩んだ。

「名前ちゃんにこんな暗い地獄は似合わないよ。だからどう?僕の所で暮らさない?今なら僕の愛もついてくるよ」
「さすがは白澤様お上手ですね」

 地獄から出られない私が白澤様に会えるのは、たまにこうして出かけた時くらいだ。見計らったように道端で会い、お茶を飲み別れる。そんな短い逢瀬が私は楽しくて仕方なかった。だって白澤様は博識で、私の知らない話をしては笑わせてくれる。今回もその手の冗談なのだろうと、笑い声を上げているとどうした事か、眼の前の彼は真剣ななりを崩さずに私の手を取った。
 兄と違って細い体をなさっているからあまり力はないと思っていたのに、やはり男性…私の拳を包む手は力強い。

「白澤様?」
「本気だよ、出来る事ならこのまま連れ去ってしまいたいくらい僕は名前ちゃんと一緒にいたいと思ってる」
「…あの、私」

 この方はこんなに綺麗な目をしていたかしら?兄に良く似ていると思っていた顔立ちが今は一人の男性として感じられる。
 初めて覚えた感覚に思考が追いつかない。あまり意味のない言葉を紡ぎ、私は視線を逸らす。白澤様の事は嫌いではないし、彼が語る美しい天国の光景だって見てみたい。それに兄も大好きな兎さんを触ってみたくもある。それでも私は自分の中の欲求のままに頷く事は出来ない。だってここには兄がいるのだから。
 なんとかして断らなければ。あまり豊富でない語彙から言葉を探っていると白澤様は私の拳を解放した。そして何時もの調子で明るく笑ってみせる。

「なーんてね、分かってるよ。名前ちゃんはアイツがここにいる限り僕の所に来るつもりはないんだよね」
「ごめんなさい」
「いいんだよ、僕も意地悪言ってごめんね。でもさ、気が変わったらいつでも言ってよ。たとえどこに居ても、真夜中だろうと駆けつけるからさ」

 きっと白澤様はこの言葉通り私が望めばどこへでも連れて行ってくださるだろう。それが嬉しくもあり、悲しくて私はただ頷いて見せた。



 それじゃあ、僕先に帰るね。なんて言って会計を済ませて店を出るとそこには見たくもない一本角の鬼が煙管を吸って立っていた。ジロリとした視線が合う。おお、怖い。これは想像以上にお怒りだ。

「そう怒るなよシスコン。お前の妹ちゃんは"まだ"お前から離れたくないみたいだしさ」
「当たり前です、私は嫁に出す気は毛頭ありませんよ」

 聞いた話、この常闇鬼神と名前ちゃんは血の繋がりがないらしい。何でも人間だった頃、同じ村で孤児同士肩を寄せ合って暮らしていたのが兄妹の始まりであるそうだ。そしてこいつが生贄にされて、その後名前ちゃんが後を追って今に至るとか至らないとか。まあ、そんな経緯が本当にあるのなら兄妹の間でそんな情が湧くのも頷けるのだけど。

「僕が殺殺処に落ちる前にお前が地獄に落ちるんじゃない?」
「貴方と違って私はあの子を妹としてしか見ていませんので、何何奚処に落ちる予定はありません」

 そう言って僕に背を向けたあいつの背中に心の中で唾を吐く。店に入ったあいつは名前ちゃんの前、ちょうど僕がさっきまで座っていた席に座った。店の外からだからあまり明確には見えないけれど、名前ちゃんは満面の笑みであいつに話しかけているし、あいつの横顔も普段の鉄仮面からは想像も出来ないほどに優しい。
 まったく反吐が出る。こんな時は花街にでも行って綺麗な女の子に癒してもらいたいけれど、今はそんな気になれず僕は帰り途を歩む。名前ちゃんと連れて帰れる日が近い内に来ればいいと、そんな夢見事を思い浮かべて。

140420