ノックもなしに大きな音を立てて開いた扉に鬼灯は、書類に判子を押しながら気だるげな視線を投げかける。視線の先でむっすりとした表情をするのは名前。ここ最近でようやく等活地獄主任補佐にまで上り詰めた鬼女獄卒である。
 彼女は片手に山積みの書類を持ち、下駄の音を響かせながらこちらへ近づいてくる。そして書類を鬼灯の前に置くと腕を組み大きく息を吸った。

「また寝てないんだって?」
「そうですね、ほぼ二日ほど」
「寝ろ」
「無理ですね」

 やけに今回は食い下がってくるなと考えつつ書類の一枚を手に取る。内容はつい先日起こった亡者の逃亡による被害の報告書。丁寧に書かれた文字の羅列を目で追っている鬼灯の前に彼に比べ一回り以上小さな手が伸びる。そして指先が書類を挟み、彼の手から抜き去った。
 一気に空になった手に鬼灯はため息をついて山積みのそれの一枚を手に取る。だが、また取られてしまった。それを二度ほど繰り返すと女性には比較的紳士的な鬼灯の眉間にも皺が寄る。彼は一般の獄卒が見たら倒れてしまいそうな鋭い眼差しを無言で彼女へ注ぐ。しかしそれくらい慣れっこなのがこの名前という幼馴染だ。

「隈、ひどいよ」

 名前は鬼灯の目元に指を伸ばし、強く擦る。微かに痛みが走り、目を細めれば呆れたようなため息が聞こえた。

「途中で会った閻魔大王も心配してた。鬼灯くん、無理しすぎだよって」
「その心配している誰かのせいで私、寝れないんですがね」

 鬼灯だって寝れるものならすぐにでも部屋へ戻って寝台へダイブしたいのだ。けれど、眼の前に置かれたこの書類達が彼に待ったをかける。
 鬼灯は分かっている。亡者の急激な増加により忙しい地獄は自分なしでは機能しない事を。それは元々みなしごで誰からも必要とされていなかった鬼灯からすれば心地の良い感覚でもあった。だからか、彼は自分に必要以上の重圧をかけてしまう。
 その癖を良く知っている名前は元よりお節介な性分なのも祟って、こうして時折書類を提出するついでに注意していた。まあ、何度注意しようと鬼灯のその癖は直らないのだが。

「貴方が倒れたら皆心配して仕事どころじゃなくなるわ」
「大丈夫ですよ。むしろ、私が倒れた方が責任感じてあのアホ大王も仕事しようとするでしょう」
「Mだったっけ?」
「さあ?私はいたって普通なはずですけど」

 このままはぐらかされるのは時間の問題だ。
 名前は額に手を当ててため息をついて考える。どうにかして寝かせる方法はないものか。しかし教え処であまり成績の良くなかった彼女に酔い考えが浮かぶはずもない。
 その間も書類整理に勤しむ鬼灯を名前は盗み見る。機械的に文章の羅列に目を通し、判子を押す作業を繰り返す幼馴染は白くきめ細かいはずの肌も荒れ、指先もペンダコが出来てしまっている。それでも仕事を続けようとする姿は獄卒の鑑だ。
 頭を巡らせる事数分、名前は動いた。まず一旦鬼灯の執務室を出て、別の部屋から椅子を運ぶ。そして鬼灯の席の横に座ると籠の中の封筒を手に取った。

「なにをしているんですか」
「これ、宛名書きくらい私がしても大丈夫でしょう?」
「貴女、自分の仕事はどうしたんです」
「もう今日は上がり。後は自由時間」
「なら自宅へ戻って寝たら如何です。夜遅くまで起きていると肌が荒れますよ、女性は気にするでしょう」
「私はそんなの気にしない、というか自分も肌荒れといて良く言うわ」
「私は男ですから良いんです」
「あっそ」

 口では会話を続けながら利き手はペンを握りしめ、封筒に宛名を書き込んで行く。それが終わると、鬼灯から書類を受け取りそれを三つ折りにして封筒の中に入れる作業へと移った。
 そうして三時間が経った頃、いい加減疲れも見え始めていた名前の目の前で最後の判子が押された。

「お、終わった」
「お疲れ様でした」

 最後の書類は鬼灯自身が封筒に入れ、封を閉じる。その横で机に上半身を預けて名前は達成感に浸っていた。

「さあ、これで寝れるわよね?」
「名前さんって昔からですけどお節介ですよね。しかもその方法がスマートじゃないから、巷じゃ貴女姐御なんて呼ばれてるんですよ。知ってました?」
「ええ、なにそれ」
「嫁の貰い手もなさそうですねえ」

 その達成感も幼馴染の辛辣な言葉の前にかき消されてしまう。それでも、これでようやくこの鬼灯が疲れた体を休めるのなら良いかな、と彼女は苦笑するのだった。

140503