私の家系の女性は代々若いころに必ず一度、変な病気を発病する。病気と言っても生死には関わらない。ただ突然ふらっと消えて、一週間後かひと月後、もしくは数年後にふらっと帰ってくるだけだ。彼女達は口をそろえて言うらしい。別の世界へ行っていたと。
 最初は遥か百年以上も前の人で、その時は神隠しだとかで騒いだそうだが、こうも何代も続くと現在では仕方のない事と親戚一同女性陣は諦めをつけていた。
 そんなわけで私のお母さんもお祖母ちゃんもそうだったから、多少の心構えは出来ていた。私が行くのはどんな世界だろうかと。お母さんはSF小説でありがちな世界に行ったそうで中々楽しかったと言っていたし、私もそこがいいなあ。なんて思っていたのに私が落とされたのは地獄でした。

「腕が止まってる!」
「ひ、ひいいい」

 とりあえず言っておこう。私は死んでない。だから地獄にいるのは所詮臨死体験ってやつなんだ、うんそうなんだ。
 最初の内はそうやって自分を誤魔化してきたものの、私がここに来てから今日で半年…やっぱりこれ一族特有のトリップですかお母さん。

「どうやら死んでもいないようで、しかも行くところがないと言うから拾ってみたものの、存外使えない」
「地味に傷つきますそれ…ていうか使えないもなにも私この世界の人じゃないですから。あともう少ししたら自宅帰りますから」

 辛辣な発言を繰り返すのは鬼灯さんという鬼神様だ。半年前、この閻魔庁の中庭に倒れていた私を見つけてくれた鬼。最初は顔も綺麗だったしときめいたりもしたけれど、今では恐怖の対象でしかない。だってこの人ならぬ鬼、少しでも休んだら叩いてくるんだもの。頭頂部にチョップ決めてくるのだもの。

「ハッ!」

 チョップの強烈な痛みを思い出して私は咄嗟に頭の上で腕をクロスさせた。つい本音を言ってしまったから、きっと何時にも増して力強いチョップが来るに違いない。そう思ったのだ。
 けれど何時まで経っても痛みもなにも訪れない。恐る恐ると腕を解いて、反射的に閉じていた目蓋を開く。私は見えた光景に悲鳴を上げた。

「おぎゃああ!」
「良い泣き声です。今度の大使コンテストに推薦しておきましょう」
「いやいやそんなのどうでもいいですから、ていうか貴方なにしてんですか!?」

 私が慌てるのも無理はないと思う。だって目を開けたら数センチの距離に鬼灯様の麗しいお顔があったのだから。慌てて背後へ体を逸らせる。椅子に座っていたのが悪かったのか、あまり効果はなかった。むしろ鬼灯様は私へますます体を寄せてくる。着物の裾を膝で踏ん付けて、逃げられないようにする周到ぶりである。

「帰るってどこへです?」
「はい?」
「貴女、今言いましたよね。帰るって自宅ってどこですか?」
「いや、あの…鬼灯様?」

 吐息がかかりそうなほどの至近距離にあるお顔はとてもイラついているようだった。短い眉をこれでもかと言うくらい寄せて、鬼灯様は私の肩に爪を食いこませる。チョップされるよりもずっと強い痛みに思わず声を上げてしまった。

「拾われた恩も返さずに帰るなんて私が許しませんよ」

 食いこんでいた爪が抜けて、僅かに血の付着した形の良いそれを鬼灯様が舐める。猫が毛づくろいでもするかのように妖艶に、ゆっくりと私の血液が赤い舌に舐めとられる。
 その光景に知らない内に私は生唾を飲んだ。なんだかあれだ。お母さんに内緒で少しエッチな漫画を読んでしまった時のような、そんな後ろめたさを感じてしまう。

「セクハラですよ、それ」

 この何とも言えない感情をどうにかしたくって私はそんな冗談を口にした。でもそれがいけなかったのだ。鬼灯様は鋭い瞳を私へ向けるともう一度爪の先を舐めて、唾液で光るそれを私の顎へ走らせる。ぐいっと顔が近づいた。

「セクハラと言うなら、これくらいしないとね」

 私は次の言葉を紡げなかった。だって私の唇には鬼灯様の薄いそれが重なっていたから。頭が沸騰するほど熱くなって私は目の前の厚い胸板を押す。すると簡単に私の体は鬼灯様から離れた。

「あ」

 驚いた顔をした鬼灯様が私へ手を伸ばす。しかしそれは私の手には届かず、彼の唇が何かを紡ごうと動くのを最後に私は宙へと投げ出された。
 ひゅるひゅると風を切る音が耳元でして抵抗で体が痛む。涙があふれて私は声にならない悲鳴を上げた。

「おっと、大丈夫?」

 もう地面に衝突するという間際、柔らかい何かに私は受け止められた。恐る恐ると顔を上げれば、三つの目が私を見つめていた。牛のような体をした大きな獣の白い綺麗な毛が風に揺られている。

「SF!!」
「へ!?」

 やった!ようやく私は望んだ世界へ来れたんだ!やっぱりあの地獄は間違いだったんだ!はしゃぐ私に白い獣は目を瞬かせる。ああ、そりゃそうですよね。いきなり空から飛んで来て叫ばれたんじゃ驚きますよね。
 咄嗟に笑顔を作って優しく地面へ立たせてくれた獣へ私は手を伸ばす。

「初めまして、私は名前です。この度は助けていただき、あだっ!!」

 おかしいぞ、なんで今あのチョップが襲い来るんだ。不思議に思いながら強烈なそれに成す術もなく地面に伏せば、頭上から聞こえたのはあの低い声。嫌な予感を感じて視線だけを持ち上げた先には一本角の鬼神。

「許さないと言ったでしょう」

 そうして鬼灯様はあの爪を唇に押し当てて口の端を持ち上げる。それはもう、悪寒がするほど美しく、妖しく。
 瞬間私は悟った。お母さん、どうやら私はもうしばらくそちらへは帰れないようです。

140430