突然鬼灯の前に現れて以来、彼に可愛がられている黒いモフモフことくろは元を正せば白澤の所有物である。と言うのも、くろは白澤が女性に煽てられるがままに創った彼の分身体であるのだ。白澤の分身と呼ぶには、あまりくろは彼に似ていない。これは白澤が酔っ払って術式を間違ってしまったなんて言う情けない理由がある。
 鬼灯は言う。「くろがあの極楽蜻蛉に似ていなくて本当に良かった」と。白澤は言う。「ごめんねくろ」と。

「大丈夫かなあくろ」

 酒瓶片手に呟いた師に桃太郎が洗い物をする手を止めた。窓辺の椅子に片足を立ててぼんやりと空を眺める白澤は弟子の方を向いて同じ言葉を繰り返す。
 大丈夫か、そう聞かれても桃太郎はくろではないのだから答えようがない。とりあえず彼は気休め程度の言葉を紡ぐ事にした。

「大丈夫ですよ、鬼灯さん女性や動物には優しいじゃないですか」
「んーそれもあるんだけどさ…これは桃タロー君に聞いても仕方ない事だったね、ごめん。もう寝てもいいよ」
「え、あ…白澤様?」

 飄々としているはずの白澤が、一瞬憂いを見せたように感じられ、桃太郎は寝室へ引っ込む師を追った。扉は彼の手が届くより先に閉まってしまう。大丈夫かなあ。寝てもいいと言われはしたもののそんな気にもなれず扉の前で悩んでいると、どうした事か閉まったばかりの扉が僅かに開いた。
 思わず飛びつくように近づく。扉の隙間から見える白澤の表情はやはり優れない。ああ、やっぱりくろを心配しているのだ。彼に弟子入りして結構な時が経つが、初めて見た師の神らしい一面に桃太郎は素直に感動を覚えた。が、この白澤がそんな一面を弟子に見せるはずがないのである。

「ごめん桃タロー君、多分あとで妲己ちゃんが来るから寝る前におつまみ宜しく」
「俺の感動返せ!!」



「くろちゃん本当に何も食べないんだねえ」

 そう言いながら閻魔大王は痛々しそうに自分の補佐官の膝に座る黒いモフモフを見た。可愛らしく小さい前足を机に置いた彼女は大きく頷く。

「食べられないわけじゃないけど、お金もったいないしね」
「気にせず食べなさいと言っているんですが何時もこの調子で」
「鬼灯が美味しそうに食べてるの見てるだけでお腹いっぱいになるんだもの」
「随分と可愛らしい事を言ってくれますね」

 箸を置いて頭を撫でてもらったくろはご満悦の様子で喉を鳴らす。それは一見どこにでもあるペットと飼い主の光景なのだが、このモフモフの人間の姿を知っているだけにこの会話や撫でる仕草がやけに如何わしく感じられる閻魔である。
 シーラカンス丼の最後の一口を飲み込み、閻魔は呆れたと言うように肩から力を抜いた。目の前では何事もなかったように鬼灯が海老フライを食している。

「くろちゃんって術で作られたんだよね?」
「そうだよーでも白澤様が失敗しちゃったから私こんなに小さいの」
「女の子なのもそのせい?」
「ううん、白澤様の趣味だって言ってた」

 パキン、と音を立てて鬼灯の持つ箸が見事に真っ二つになる。ひいっと息を飲んだ閻魔を尻目にくろの話は続く。

「白澤様、その時一緒にいた女の人から叩かれて痛そうだったけど、私が人になったらすぐに機嫌が直ったの。可愛いって言ってくれたよ」
「…その時あの白豚は貴女に何をしました?」
「え、抱っこしてくれたけど…今の鬼灯みたいに」

 駄目だよくろちゃん!それは白澤君を殺すための呪文だよ!!
 唯一鬼灯の心情を理解する閻魔の心の叫びは無垢、もしくは馬鹿なモフモフには届かない。彼女は結局、鬼灯が食事を終えて修羅にも似たオーラを放ちながら立ち上がるまで笑顔を絶やさなかった。

「大王」
「な、なんだい鬼灯君?」
「私しばらく自室にこもりますから」
「う、うん。くろちゃん頑張ってね?」
「うん?」

 さすがに不穏な物を感じ取ったらしいくろが震え始めるが時すでに遅し。むしろ鬼灯はそれをチャンスとばかりに白々しく「温かくなりましょうか」なんてセクハラ紛いの台詞を吐いている。廊下の奥へ消えて行く黒い背中へ閻魔は力なく片手を振った。

140507