唯一残された命綱を自分の手で切れる人間はいない。たとえそれが幸せと引き換えであったとしてもそう簡単に手放せる存在ではなかった。特にあの頃の幼い自分では、到底無理な話だった。


 朝の薄暗い屋敷はお化け屋敷と呼ぶに相応しい貫禄を漂わせ、家の主を受け入れる。ギイギイと鳴り響く鴬張りの廊下を進んだ先にその一室はあった。
 真っ白な何の汚れもない障子を開けば、殺風景な部屋の全貌が見渡せる。中央に敷かれた布団の膨らみ、それは葵の目当てだった。
 そっと音を立てぬようにして膨らみの横で腰を折る。暗がりの中でもわかるほどに白い肌は血の気が引き、もはや青白く、唇にも生気が感じられない。それでも頬や手に触れれば暖かく、確かに彼女が生きている事を伝えている。
 それでも安心するにはまだ足りない。声が、開いた瞳が、笑い顔が全てを見なければ彼女がここにいるのだと安心する事が出来ない。
 届くはずもない小さな謝罪は静寂の中へと落ち、握りしめた暖かな手に微かな力を込めた。

「名前、今なら僕は…」

 告げようとした言葉は声にならない。辛そうに、今にも泣き出しそうな表情をして葵は双眼を手の平で覆い隠した。そうでもしなければ、自身の感情が溢れて来てしまいそうだった。

「…ごめん…やっぱり、離れたくないんだ…」

 彼女の目が開く事はない。心のどこかで分かっている事実、それでも期待してしまう。またあの日と同じように笑顔で自分の名前を呼んでくれるのではないかと。
 そんな都合の良い妄想から目を逸らす事さえできない。それが何時の日か現実の物となってくれるよう、心の底から願って、彼は名残惜しそうに繋いだ指を解いた。

150405