私は運がない女だ。
 今日もまた毎週水曜日限定の激安卵を目の前で逃し、就職先の飲食店では突然のふらつきでお客様へ水をぶちまけ、落ち込んだ帰り道では近所の悪ガキに意味のない頭突きを喰らった。まさに満身創痍。私は本当に貧乏神から好かれているようだ。
 ああ、あとそう言えば極めつきの話があった。もうひと月は前、教え処が一緒だった所謂幼馴染なんてものにカテゴリされる男性から「抱かせてください」なんて懇願されてまんまと絆された末、なんと私はたった一回で子供を授かってしまった。

「認知…なんて、無理な話か」

 あの時彼は子供を望むような発言をして私の胎へ子種を注いだ訳だけど、それ以来何の連絡もない。無責任な最悪男だと内心罵ってやってもいいのだろうに、腹に宿る子供の事を考えると陰口をたたく事も憚られた。
 さて、どうするか。今はまだ良いとしてもいずれは腹が膨らむだろうし、そうなれば周りからの追求だって受ける事だろう。今現在彼の名前を出す事もなく、私が傷つく事もない上手い交わし方なんて考えつきやしないし、きっとこれからだってそうだ。ああ、考えると何だか全てが嫌になってきた。腹を摩りながらあまり寝心地が良いとは言えない布団に寝転がる。この子が生まれるまで十月十日、身の振り方を考えなければ。



 段々と膨らむ腹はどんなに帯をきつく巻こうともう隠せない所まで来ていた。生活のため働きながら日々重くなる体と闘う毎日の中、彼からの連絡は来ない。
 ああ、きっともう忘れられてしまったのだ。高級官吏様のひと時のお遊びだったのだ。よくドラマであるじゃないか。身分違いの恋をして最終的には別々の道を歩むっていう話。まあ私の場合恋愛のれの字にも発展してはいないのだけど。
 今日もまた特売品の卵を目の前で逃して、何も買わぬまま帰路につく。あと数カ月もすればこの空いた手に子供を抱えているのだろうかと考えて、私はようやく事の重大さに気がついた。

「なんで私…産もうなんて、思ったんだろう」

 勝手に孕ませておいて何の連絡もない男の子供なんか、産んでやる義理もない。かと言えどもう中絶できる期限など過ぎてしまった。

 途端に腹にいる子供がただの異物のように感じられた。別に今までも慈しんできたわけじゃないけど、こんな憎悪にも似た感情を抱くのは初めての事だ。
 ぞくぞくと背筋を這いあがる悪寒に悲鳴を喉の奥で掻き消して私は足を速める。家に帰ったらとりあえず思いのままに大声をあげてやろう。そして布団に転がって、そして、そして。
 そんな事を考えていた天罰だろうか。ふと気がつけば私はあの日通った湖の傍へと辿りついてしまっていた。そして、前方に見える人影は、紛れもなく彼…鬼灯くんその人のものに違いなかった。

 気がつけば足は勝手に動き出してしまうもので、彼の鋭い双眼を映した瞬間には私の足は反対方向へと駆けだしていた。逃げ出してどうするのかと事実を話すべきではないのかと様々な言葉が頭の中を駆け巡る。でも逃げだせば彼の顔を見ずにすむし、事実を話して拒絶されるのはとても怖い。

ああ、もうどうせならこのまま知らない場所へ行って、消えてしまおうか。

 ふと魔がさして、足が崩れる。ちょうど下り坂になるこの場所へ倒れてしまったら、きっと。一瞬の強烈な吐き気と共に軽くなる体は重力に従って、背後から伸びた腕に捉えられた。

「…すみませんでした」

 耳元で聞こえた掠れた声が、腹を労わるように緩く、けれども強く抱きしめる腕が全てを物語っている。目蓋が熱くなって涙が頬を滑り落ちて、腹に回る腕へ落ちた。

「冷静になって考えてみれば私は貴女の連絡先さえ知らなかったのですね。何も知りもしないで、勝手な事をしました。ですが、」

 一度言葉に区切りを入れて、耳元で髪の揺れる音がした。ちょうど私のお腹辺りを見つめる双眼が首を回すと僅かに見える。

「私は貴女と、この腹にいる子供が欲しい」

 間違いなく一瞬だったけれど、黒い髪に隠れた双眼が切なげに曇った。絞り出すような声色も切実で、体に巻きつく腕はぎゅっと私を締めつけて離さない。
 もう数カ月は前、私は言ったはずなのに。私の不幸で貴方の悲しみを取り除けるのならこんなに幸せな事はないって。あの日のように俯く顔へ両手を添える。驚いた顔をした彼に笑ってそっと唇を塞げば、やはりあの日のままの微笑に出会えた。

「馬鹿な人ですね」

141029