雨神とはその名の通り雨を降らせる神の事である。雨は恵にも、災にもなるから人間は私の事が好きなようでいて本当は大嫌いなのね。そう言っては雨神は何時も呆れたようにして笑った。
 その顔を幾度となく目にして、その度にもう雨など降らせなければ良い。そうすればもっと一緒にいられるのにと何時も思う。けれどその言葉を幼い鬼は絶対に口に出したりはしなかった。雨が降らなければ自分のような者が増えるだろう。そうなればこの優しい神様はその生贄の事も同じように愛してしまうだろうから。ようやく自分だけの愛情を手に入れたのに、それが他の者に向かう事など我慢できない。
 齢数千歳となる鬼神は、雨が降らなくなる事を今でも恐れていた。



「ここ最近、現世で雨が降っていないようですね」

 鬼灯は不穏な声色でそう言うと手に持っていた巻物をその場に置いて不機嫌そうに眉を顰めた。向かい合う自身の主である雨神はチラリと天井の方角を見つめて「ああ、」と声をあげた。「そう言えばそうですね」そんな響きを伴った短い音に、一人焦っている自分がみじめに感じられてくる。
 自身の眷属の感情を見透かす彼女は長い睫毛を物憂げに伏せて、白く長い裾からほっそりとした指先を伸ばした。真向かいにいた鬼灯は伸ばされる指先に吸い寄せられるように自分の方から近づいた。纏め上げた黒髪を撫でて目尻を拭われる。「泣いてなどいませんよ」悪態をつくが一笑されてしまった。

「現世で生贄を差し出してくるような人間がまだいると思う?」
「信仰の厚い者ならばあるいは」

 雨神からの勧めもあり、鬼灯は閻魔大王の元獄卒の職についている。つい最近では閻魔から直々に補佐官昇格の話も出ており、彼の名は地獄に広まりつつあった。
 亡者への呵責の腕も確かな冷徹な男、鬼の中の鬼。畏怖したように見る者も多いその鬼が、まさか弱々しくすら感じられる女性に抱かれているとは誰も思うまい。
 いつの間にか後頭部へ回った腕に誘われて身を寄せた彼は、ふと視線を吹きさらしの縁側の方へ向けた。水分を吸いこんだ板張りが濃く変色している。地の底にあるこの地獄に雨が降るなど本来ならば在り得ない事だ。地面を叩きつける雨水から視線を外せずにいれば頭上の主はまた小さく笑い声をあげて鬼灯の頭を撫でた。

「この雨は、不安がる貴方へ降らせたもの。何も不安がらないで…私には貴方だけ、貴女にも私だけ、そうでしょう?」

 返事を返す事は出来なかった。頬が異常なほどに熱を持っていて、今の顔はとてもじゃないが密かに焦がれる主へ見せられる物ではない。首を竦めるように鬼灯は彼女の胸へ顔を埋める。白い着物からは雨の匂いがした。



「ああ、でも親代わりと言いますか、そんな存在の女性がいますよ」
「「え?」」

 ひょんな事から鬼灯の出生を聞いてしまった小鬼二人は、全てを話し終えた後に付け加えるようにして言った上司に揃って首を傾げた。
 唯一、もう一人その場にいた閻魔だけがうんうんと頷いている。ちらりと常識人の唐瓜が閻魔へ視線を投げれば、鬼灯の変わりに続きを引き受けてくれた。

「この地獄にはね、伊邪那美命以外にもう一人神様がいるんだよ」
「でもそんな話聞いた事ない…」
「彼女多忙で良く現世へ行ってるから新卒の君たちが知らないのも無理はないかもね」
「じゃあその神様が鬼灯様の親代わりなんだ」
「はい、鬼になってから雨神様にお世話になってきました」

 雨の神様と言われてもイメージとして浮かぶのは濡れ女のような妖怪の姿。まさか本物が未だうら若き乙女であるとも思えぬ小鬼二人は互いの顔を見合わせて微妙な表情を見せた。濡れ女みたいな神に育てられた鬼神…似合わぬ組み合わせに胸の奥が燻る感覚がある。

「言っておきますが濡れ女などではありませんよ。見た目で行けば私と大差ありません」

 頭上から降って来たのは微かに怒りの込められたバリトンボイス。それと同時に背筋に大量の水が垂れ落ちた。良く背筋が凍りつくようだと表現するがまさに今彼らの背筋は大量の水分を含んだ着物が張りついた事により凍りついている。
 ええっと声なく叫ぶ唐瓜と不思議そうに濡れた着物を握り締める茄子は、誰がやったのかも気付いていない。ただ一人、誰がやったのか察しの行った閻魔は呆れ眼を自身の補佐官へと向けた。

「君さ、マザコンだよね」
「マザコンではありません。親代わりであって彼女は本当の私の親ではありませんから」
「それ本人に言ったら泣かれるよ」
「泣かれた方がいいかもしれませんね、いい加減子供扱いは止めてほしいので」

 休みになれば地獄の奥の屋敷へ戻って甘えている癖に何を言う。
 とりあえず小鬼二人へ休憩を告げて、閻魔は懐から携帯電話を取り出した。誰にかけるかなど鬼灯は分かっている。止めもせずに、机の下から獲物を狩る目つきで見上げてくる彼から隠れるようにして閻魔は電話帳に載っている番号を押した。そのはずだった。

「もしもし主様ですか、はい…元気にしております」

 ドシンと大きな音がして体の左半分に強烈な痛みが走る。何が起こったのか理解もできずにただ眼球を上へと回せば、今まで閻魔が座っていた椅子に正座する鬼灯の姿が見えた。心なしか声も弾んで、白い頬が微かに紅潮している。

「え、明日こちらに戻られるのですか?では、私も明日は屋敷へ戻りますので…いえ、大丈夫です。大王も是非と言ってくだっていますから」

 え、なにそれワシそんなの聞いてない!
 ぎょっとして鬼灯を見上げるも彼の視界に閻魔が映される事はないだろう。彼の目は明日見える予定の主しか映していないのだから。
 痛む腰を摩りながら閻魔は思う。雨神にお願いして彼を補佐官へ召し上げたのはいいのだけれど、彼女へむけるその忠誠心をワシにも少し分けてくれないかなあ。そんな閻魔の想いを掻き消すように嬉しそうな鬼灯の声が静まり返った法廷に響いた。

「主様、私は貴女だけをお慕いしております」

141004