彼女が現世で暮らしている間俗に言う水商売と言う物についていたと言うのは、昔一度だけ聞いた事はあった。あの気の弱く大人しい妻が良くそんな職につけたものだと、あの時は暫しの間茫然とし、次いで感心したものだ。感心した、とは言うがもちろん嫉妬心はあった。知らぬ人間のために着飾って酒を注ぎ、愛想を振りまいていたという事実は確実に鬼灯の心を黒く染めた。それでも嫉妬のままに嬲ったりする真似が出来なかったのは、彼女が自分たちの息子のために頑張って来たのだと悟ったため。
 「頑張りましたね」と抱きしめた時に小さく嗚咽を漏らした細い背中の暖かさは今でも良く覚えている。

「…おやまあ、懐かしい顔が来ましたねぇ」

 一つ言い忘れていた事があった。この鬼灯という鬼神は他人が思うよりもずっと執念深い。ゆえに彼女に手を出した相手は全員顔を覚え、一度現世にまで出向き軽い報復を加えた事があった。まあ、鬼が人間に手を出すのはご法度であるので、本当に軽ーくジャブを入れた程度である。

 さて、話を現在へ戻せば、目の前にはあの時の男が死装束姿で立っている。中年太りのいかにもそれらしい男だ。あれから数年、死因はアルコール中毒による事故死。酔っ払ったまま道路へ飛び出して大型のダンプカーに轢かれてしまったらしい。

「ああっ、お前あの時の…っ!?」
「おや覚えていて下さいましたか。偉い偉い」
「カーッ!腹が立つ!」

 軽いジャブを入れただけで何をそこまで目くじら立てるのか。一人ヒートアップする亡者を冷めた視線で見つめていれば、頭上から何か言いたげな視線を感じた。何です、何か文句でもあるんですか。睨み返せば慌てたようにして尺を握る。

「と、とりあえずこの男の罪状を…」
「口にするのも面倒くさいので浄玻璃鏡を使いましょう」

 まだ何か言いたげな視線の大王を無視して電源を入れる。何が始まるのだと怪訝な表情を見せる亡者は、次の瞬間鏡に映った光景に声を大にして叫んだ。

「ああ、こいつは」
「名前でしょう」
「そうだ!名前だ!」

 鏡には露出の高いドレスを着て綺麗に化粧をした妻が愛想笑いを浮かべている。若干その笑みが引き攣り気味なのは、この亡者が彼女の腰に腕を回しているからだろう。

(嗚呼、腹立たしい…あ、こいつ今わざと尻を撫でたな)

 酒に酔ってデレデレと鼻の下を伸ばした男の何と腹立たしい事か。今にもリモコンを壊しそうなほどに腕に力を込めれば獄卒が小さく息を飲む。彼らは、今鏡に映っている女性が誰であるのか痛いほどに知っているのだ。彼女は自分たちの上司閻魔大王第一補佐官である鬼神の妻であるのだと。

「ちくしょう…こいつあれだけ贔屓にしてやったのに勝手に店を辞めやがって…」

 この場で唯一それを知らぬ亡者は悔しげに顔を歪ませて肥え太った親指を噛む。その目は爛々と輝き、名前を凝視する。何を考えているのかは、手に取るように分かった。
 おい、止めておけ。鬼灯様の怒りを買うぞ。相手が亡者である事も忘れ、思わず助言をしたくなるほど、目に見えて鬼灯の怒りは膨れ上がって行く。
 閻魔も威厳ある表情を取っ払い、尺を手放して視線をうろうろと泳がせてこれから訪れるだろう鬼神の怒りに備えていた、まさにその時だった。

「こんな事なら一度無理やりにでも…ふばっ」

 黒い鉄の塊が亡者の顔面へ埋め込まれて全ては言えなかった。しかし内容は聞き心地の良いものでない事は確かだ。自業自得、床に倒れ込んだ亡者に追い打ちをかけるようにその顔面を踏みつける鬼神の後ろ姿を見つめて獄卒や閻魔はそう考えた。触らぬ神に、ならぬ触らぬ鬼神に祟りなしの心境である。

「無理やりにでも…なんですか?」
「いったたたたたたたた」
「まだ口はついているんです、答えられるでしょう?ほら私に教えてくださいな、貴方私の妻とどうするつもりだったのです?」

 いや、それだけ踏みつけたら痛みで答えるどころではないだろう。段々と動きの鈍くなる亡者はもはや鬼灯の言葉を聞けているのかすら怪しい。

「貴方、彼女の客だったのでしょう?子供がいるって聞いた事はありませんでしたか?嗚呼、信用なんてされてませんものね、教えてもらえるはずもありませんか。あ、紹介が遅れましたが私名前の夫です。そうですよ、ご察しの通り、その子供の父親です。訳あって暫く離れて暮らしていたので彼女がこの職についていた事は知らなかったのですが…こうして見てみると本当に腹立たしい物ですね。お前のように勘違いする男共が沢山いたって事でしょう?ああ、そうだ折角ですし良い事を教えてさしあげましょうか?本来の彼女はあんなに化粧をしませんし、あんな露出の高い格好をしたりしません。ついでに言えば、ああ言う風に抱き寄せたら顔を真っ赤にして、それでも幸せそうに笑うんですよ。決してあんな引き攣った笑みなど浮かべはしません。言っている意味がわかりますか?」

 息継ぎも少なく、一気に捲し立てるように告げてやる。血で充血し赤く染まった眼球がこちらを振り向き、唇が微かに戦慄いた。

「彼女は私のものですので、貴方が早く彼女の事を全て忘れてくれるよう願います」

 それでは、地獄へ行ってらっしゃい。

 鬼の無慈悲な囁きは広間に低く響き、次いで亡者の砕ける音が響く。一瞬にして赤く染まった真っ白だった床と血を吸い込んで黒く変色した死装束が目に痛い。くるりとこちらを振り返った鬼神は頬についた返り血を拳で拭うと金棒を片手で背負い、ふうと満足げに息を吐いた。

「嗚呼、すっきりした」

150412