慣れ親しんだ自宅が今は魔王の城のように見える。横に居る彼女に悟られないように多喜はじっとりと濡れた手を自身の着物で拭った。横を向けばそこには恋人である彼女が小首を傾げてこちらを見ていた。その瞳に怯えはなく、むしろ楽しげだ。それもそうだ。彼女は自分の両親、正確には父親の性格を良く知らないのだ。
 これから待ち受けるだろう様々な困難に今すぐに立ち去ってしまいたい気持ちに蓋をして多喜は実家の門を潜った。

 何故多喜が恋人を実家に連れて来たのかと言うと、勿論彼の両親が原因である。否、元凶は妹であるのだが、連れてくるように言ったのは父親なのでやはり原因は両親にある。仕事で疲れ切った晩、電話で有無を言わさずに呼び出された多喜はやけににこにこした母親と仏頂面をした父親に告げられたのである。

『付き合ってそろそろ一年でしょう。一度、家へ連れて来なさい』

 拒否権はないと暗に告げる声色に多喜が拒否できるはずもない。最後の頼みの綱である彼女も了承してしまえば彼に逃げ道は残されていなかった。

 かくして今日、実家を訪れた彼は金魚草の揺れる中庭に面する居間で、恋人以上に緊張していた。目の前に座る父親はさすがに不機嫌そうではなかったものの、鋭い目つきは健在であるし、それを緩和できる笑顔の母は現在台所でお茶を準備している。
 ふと横を見れば彼女は目を輝かせていた。そう言えば、父親があの鬼神であると告げた時もすごい!と喜んでいたのを思い出す。彼女の中ではテレビで良く見かける父は芸能人と同じ扱いなのだろう。

「ごめんなさい、お口に合えばいいんだけど」

 そうしていると台所からようやく母である名前が顔を覗かせた。手に持つお盆にはお茶と桜色をした練りきりがある。口調からしてどうやら手作りのようで白い頬を赤くさせた母に一言断って口へ運べば甘さが口の中へ広がった。

「美味しい!」
「良かった、味見してみたんだけど甘すぎかなって思ってたから」
「ううん、これくらいが好き。て言うか、お母さん和菓子作れるようになってたんだ」
「レシピをね、知り合いからもらったの。気に入ってくれたなら良かった、また今度別のも作ってみますね」
「うん、楽しみにしてる」

「多喜」

 低い、地を這うようなバリトンボイスに肩が震える。機械のように小刻みにそちらを向けば般若の形相をした父がこちらを睨みつけていた。
 これまた恐る恐ると横を見れば、恋人が引き攣り笑いでこちらを見ている。あ、やばい。やってしまった。瞬時にそう悟った。

 多喜はマザコンの気があると幼い頃から言われてきた。この恋人ができた時も父や妹からからかわれたものだ。黒髪に白い頬をした恋人は確かに母に似ていない事もない。特に現在引き攣り笑いでこちらを見る顔は、母の父と白澤の喧嘩を見守る際の表情と良く似ていた。ようするに呆れて引いているのである。

「すみませんね、母親と二人でいる時間が長かったものですから」
「い、いえ…仲が良いのは良い事です」

 珍しい父のフォローと恋人の愛想笑いがとてもつらい。
 顔を真っ赤にして俯く二人の姿は、流石親子と言うべきかそっくりであった。



 不幸中の幸いと言うべきか、今日喜子は学校のために不在だった。もしいたならば凄まじいからかいを受けた事だろうと多喜は密かに安堵の息をつく。
 現在彼女は洗い物をする名前の手伝いをしており、居間には多喜と鬼灯しかいない。胡坐をかいた父は不機嫌全開の様子で机に頬杖をついていた。

「多喜」
「は、はい」
「彼女の事ですが…」

 一呼吸がやけに長く感じて、生唾を飲んだ。

「思っていたほど名前に似ていませんね」
「え、そう?」

 予想ではこのまま小言を言われると思っていたのに、まったく違う言葉をかけられた事に少し驚く。首を傾げてみれば自分に良く似ていると言われる顔が少しだけ緩んだようだった。

「まあ、上手くいく事を祈ってます」
「…ありがとうございます」

 という会話があったにも関わらず初めての恋人とは、そう上手くいかないものである。数年後には親どころでなく、三百は下の妹に先を越されるばかりか、結婚の心配までされる事になるとはこの時の多喜は分かるはずもなく、時間はゆっくりと過ぎて行く。唯一主人の今後を知っているかのように庭の金魚草が悲壮な声でおぎゃあと泣いていた。

150308