ひらり、布がはためいて視界が明るくなった。と言っても部屋の中は暗く、明暗の差はさほどない。毛布をひっかぶることで遮断していた雨音がまた聞こえる。僕の胸がぐじゅりと疼いた。
「イシュケ」
名前を呼ばれても、僕は顔を上げない。「イシュケ、イシュケ」と僕を呼ぶその声が優しければ優しいほど僕は頭を膝に擦り付ける。ただでさえ暗いのにますます気分がふさいだ。
「ここ三日間、ずっと雨が降ってるよ。どうしたのイシュケ」
「別にどうってことはないよ」
「マルクになにか言われたの、うっかりなにか壊しちゃったの、それとも憂鬱になっちゃったの」
僕は黙った。その間だけ顔を上げるかどうか迷った。でも、やっぱり僕は彼女の方を見上げてしまった。我慢しきれなかった。それというのはつまり、僕の涙腺の決壊を意味するものである。
「ぜんぶ、ぜんぶなんだよぉ、そふぃあぁ……」
僕は顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣き出した。さっきまで泣いてたから最初から鼻は赤いしまぶたも腫れていたし、それはそれは醜いものだと思う。
二重にも三重にもにじんでいるけどソフィアの表情はとても穏やかで柔らかく見えた。そんな彼女と目を合わせると、どうしても泣きたくなってしまう。僕は元から泣き虫の弱虫なのに彼女のそばにいるとそれがもっと酷くなるのだ。
こうしてぐずぐずの腑抜けになった僕は涙腺以外のものも制御不能になって、とうとう喚き出す。
「一昨日はあいつに、マルクに茶化されたんだ、泣き虫雨男って、そう、そんな程度の言葉で僕はどんどん悲しくなっちゃって、昨日手伝い代わりに皿でも洗おうかと思ったらソフィアの気に入りのカップのソーサーを割ってしまって、全くそんな気はなかったのに、僕は皿洗いすらまともにできないのかと思ったらもうたまらなくなって、それで、今日はその二日間あんまりにも些細なことで泣いて雨降らせてみんなに迷惑をかけた僕が情けなくて涙が溢れてきて、それで僕は、僕は、あぁ!」
ソフィアは僕がまくしたてている間、ちょっと困ったみたいに眉を下げて笑っているだけだった。僕は整理整頓されていない頭の中にある言葉の断片を叫んだだけだ。きっと本当に彼女は困っている。訪ねてきてくれた幼なじみに対して、僕はまともな歓迎の文句も言えないまま自分の激情に流されて情けない姿を晒すだけなのかと思うとまた狂おしい気持ちになってきた。
謝罪を口にしようにも、喚き疲れた顎はがくがくになってまともに動いてくれそうにない。もどかしくてシーツを握る手に力がこもる。もし僕が剛力だったらこのシーツを八つ裂きにして歯痒さを発散していただろう。外からは雷が轟くのが聞こえた。
喉が震え出して嗚咽する声が溢れそうになった時、ソフィアがまた僕の名前を呼ぶ。
「イシュケ、イシュケ。まずは深呼吸しましょ。わたしも一緒にするよ。することは簡単、息を吸って、吐くだけ」
焦点の合わない僕はただソフィアの顔をじっと見つめていたけど、頼りにならない視界はいらないと思った僕は目を閉じた。
最初にはっきりと感じたのは彼女が僕の手の甲をなぞる感覚。がさがさしてて少し硬くなった指先が、青く浮き出た血管を滑る。それから、ゆっくりと大きく呼吸するささやかな音が聞こえた。泣き喚いた後だから頭がぼうっとする。僕はただ意識を失わないよう、その二つの感覚だけに集中していた。
「落ち着いた?」
「うん」
「うん」
目を開けると、最後の涙が一粒流れ落ちた。視界は大分明瞭になっていてソフィアの顔がよく見える。ぐずぐずの僕を見ても可哀想なものを見るようでもなく、かと言って小馬鹿にして嘲るでもなく、真摯に僕を見つめていた。
「あのね、イシュケ。マルクは昔から口が悪くて人の欠点ばかり口にしたくなるお子様だし、ソーサーがなくてもお茶は飲めるし、きみがいくら自分をだめなやつだと思い込んでもわたしはそうじゃないって知ってるよ」
歌うように紡がれた言葉は耳から入り込んで、骨や胸の奥、体のいたるところににじんわりしみこんでいく。乾いた土が水を吸い込んで最後には馴染むような、そんな光景が頭に浮かんだ。どんな言葉なら僕が受け入れるのかをソフィアは熟知していた。
「だからそうやって泣くのはもうやめにしよう。わたしはきみの笑顔が見たいな」
「……そんなこと、言われたらさぁ」ちゃんとわかっていながらそういうことを言うソフィアを恨みがましく思って、額にシワが寄って眉が下がりそうになる。それもちょっとだけ我慢だ。結んだ口元をなんとか引き上げて、僕は笑顔を作ろうとした。あぁ、鏡を見なくてもわかる、多分今の僕はものすごくひどい顔をしている。
それでもソフィアはとろりとした蜂蜜を思わせる笑顔を浮かべてーーまるで女神様かそのお使いかのようなとても美しくて甘い表情をしてーー僕の頬に手を伸ばした。掌に包まれた頬が温く心地いい。けど耳と首の境目をなぞる指がくすぐったくてちょっと肩をすくめる。するとソフィアが声をもらしながら笑うのだ。
「無理に作らなくてもかわいい顔できてるじゃない」
「……男をとっ捕まえてかわいいなんて言うもんじゃないよ」
「わたしの『かわいい』はわたしで決めるの。きみに口出しはさせてあげない」
あんまり優しい手つきで撫でられるものだから、なんの反論もできなかった。この子は「でも」や「だって」に溺れやすい僕をすくい上げる術さえ知っている。だから僕はされるがままになってソフィアをじぃっと見つめていたのだった。
ソフィアはとても温厚な人物だが、きりりとした目尻と少しだけつり気味の眉毛がその印象を薄める。くるんと額にかかったブルネットの髪まで強そうに見えるし、常に弧を描く唇なんか『いかにも』って感じだ。そんな見た目をしているくせに、いつだって僕には柔らかい言葉を投げかけてはとろりとした笑顔を向けるのだからずるいと思う。
おいしく焼けたパンを思い出させる焦げた茶色の目がふいっと僕から逸れた。その瞬間に僕はついさっきまで彼女と見つめ合っていたという事実に気が付く。全くの無意識だったのだ。恥ずかしくて僕は頭ごと顔を背けた。ソフィアはと言えば僕と反対の方、つまり窓の外を見ている。というか、僕がソフィアの反対を見ている。どうして見つめ合ったりなんかできたんだろう、それもなんの言葉も交わさないで。僕が状況を理解すればするほど、心臓は少しずつはっきりと鼓動を早めていった。
「ねぇ、外、見て。お天気雨」
「え?」
「雲が切れててお日様が顔出してるの」
そう言われて慌てて窓の外を見やると、確かにさっきよりも明るい。雨の弾幕も薄らいだのか、雨粒に光がきらきら反射しててなんだかちょっと神聖な雰囲気だ。
窓の枠から中に視線を移すとソフィアの横顔が見える。彼女はさっき僕の頬を撫ぜていた時とはまるで違う表情で外を眺めていた。濃い色の目はよく光を映していて、その中には無数のきらめきが踊る。彼女の目という鏡を通すと雨の神聖はどこか遠のいていき代わりに純真さが感じられるようになった。
ソフィアが僕を振り返る。その顔はどこか子供っぽくて、僕はほんの少し懐かしい気持ちになった。
「外、行かない?」
「やだよ、まだ雨は降ってるんだよ」
「ちょっとくらい濡れた方が楽しいよ、きっと」
まるで僕に断られるとはこれっぽっちも考えちゃいない物言いだった。でも実際僕も断る気にはなれなかった(気が進まないのは本当だ)。
僕が是と答えるまで待ちきれなかったのか、ソフィアは僕の手を取ってとうとう駆け出す。
「待ってソフィア、靴くらい履かせて!」
「もう、早くしてちょうだいイシュケ」
僕を急かす彼女は笑っている。さっきまでの蜂蜜を思わせる笑顔ではない。嬉しいという気持ちがそのまま溢れかえったみたいな感じの飾りっ気のない笑顔だ。本当にただの子どもの頃と同じ風にして笑っている。あぁ、なんてあどけなくてなんて愛らしいんだろうか!
結局、僕もその幼気につられて笑ってしまう。
外から聞こえる雨音も、何故だか笑い声のように聞こえた。
鏡の雨が降るある日
泣くことによって雨を降らせてしまう泣き虫と、その幼馴染の女の子の話。
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