「店じまいの時間だ。起きろ。部屋にあがれ」
 声をかけられただけだというのに、ライサンダーを襲ったのは首筋に氷を押し当てられたようなささやかな衝撃だった。机に突っ伏し、すっかり油断しきっていたライサンダーは文字通りの意味で飛び起きる。それに従い彼の座っていた椅子が音を立てて倒れた。本人にそれを気にする様子がないのは、数時間掛けて彼の体に注ぎ込まれた酒量がそれだけ多かったというだけの話である。
 不意に立ち上がったために心臓の鼓動は突如として速まり、ライサンダーは胸元を押さえた。あぁ、頭がくらくらする。歪んでは揺れる視界が緑と赤に点滅して止まらない。少しでも痛みを振り払おうとかぶりをふると、余計に頭がぐらついた。
 少しばかし飲みすぎたかなぁ。
 そう呟いたつもりだったが、声は乾燥した喉に張り付いて外に出ることはなかった。なるほど、これはひどい有様だ。そう自覚できるほどに彼の意識ははっきりしていた。
 なぜ彼が現に意識を縫い止めていられるのか。それはライサンダーの脳裏にこびりついて離れないものがあるからだ。
 それは声。ライサンダーをまどろみから引きずり出し、さらに覚醒させるまでの力を持った声。低く、冷たく、かすれた声。決して不機嫌ではなく、かと言って呆れてもいない。冴え冴えとしていておよそ無感情な警告。それがまるで打ち込まれた楔のように頭に残ったのだ。
 乾いた唇をなけなしの唾液で潤した彼はようやく「なんなんだい君」と口にする。こんな魅惑的な声をした君は一体何者なんだ。言外にはそんな意味を込もっている。
 「それはこちらの台詞だ」
 簡潔な返答。酔っ払いのいびつな世界でもその声だけは明瞭だった。冷徹な響きは先ほどと変わらない。いっそのこと頭蓋を揺すぶる幻すらちらつく(元より彼はすっかり出来上がった酔っ払いであり、目眩の原因が本当にその声なのかは定かではないが)。
 せめてもう少しだけ、ものがちゃんと見えるのなら声の主の顔も確認したかったものだ。今の視界で声の方を見ても黒っぽい色がぼんやりと輪郭をにじませて見えるだけである。その黒っぽいものが相手の頭であると仮定するのであれば、彼は相当に身長が高いらしい。大抵の人間より大きいライサンダーと同じくらい、あるいはそれ以上の身の丈をしている。悪足掻きと分かりながらも、ぎっと目元に力を入れて焦点を合わせようと試みた。当然のように輪郭は定まらない。
 「睨んだところで言うことは同じだ。店じまいだ。部屋にあがれ」
「ん、んんん……」
 睨んだつもりはなかったのだけど。そう言おうにも身体の限界が近い。いよいよ潮時のようだ。ライサンダーは悪あがきをやめる。意識が明瞭だったのはさっきまでのこと、あまりに魅力的な声に興奮して気分が盛り上がってしまっただけらしい。
 「わかったよう。あがればいいんでしょあがれば」
「最初からそう言っている」
「はぁい。で、どこに行けばいいのかな」
「そこの扉から出て左に曲がったところにある階段を上がって六号室と書いてある部屋だ」
「わかりましたよ、っとと」
 扉、左、階段、六。口の中で呟きながらライサンダーが扉へ向かう。その足取りはおぼつかない。あちらへふらり、こちらへよろり、千鳥のごとく。
 扉、左、階だん、ろく。
 とびら、ひだり、かいだん、と。
 言葉が途切れた。手を掴まれたからである。誰に、と考えようとして、黒い頭がまだそこにいたことを思い出した。しかし……そいつがいるからどうというのだ? 手を掴まれ引っ張られることに関係しているのか? まとまらない思考回路は泥のようにわだかまっていく。正常な働きはとっくに放棄されてしまった。
 彼は手を引かれるままずるずると歩く。誰に手を引かれているのか。どこに行こうとしているのか。今自分が何をしているのか。堂々巡りの泥遊びじみた考え事をしているうちに世界が横転する。つまずいた? 考えるより先に鼻先に石けんの匂いがかすめた。頬をすりよせてみると、ふかふかと柔らかい。直感のままに深呼吸してみると、なんだかほっとした。心地よい。
 とろとろと弱火にかけるような優しい眠気がライサンダーを包み込む。さて、なにか考えていたような気もするがこの眠気よりも大事なことを考えていたはずもあるまい。今はなにもかも放り出したい。……もういいや、全部放り出してしまおう。
 「    」
 意識を手放すその一寸前。夢と現の境界の上で。なにか、聞こえたような気がした。
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