陽気な音楽でライサンダーははたと目を覚ました。首と腰がじくじく痛むことから、どうやら机に突っ伏して眠っていたらしいと分かる。はっきりしない頭を振って覚醒を試みるもどうにも上手くいかない。右手に握ったままだった容器にはまだ黄金色をした酒が少し残っていた。そう言えば喉も渇いている気がする。気付けにとそのまま口に運び、ぐいと煽った。独特の苦味は喉を通り過ぎ、こうばしい風味が鼻腔に残る。あぁ、確かにこの店の酒は美味い。
 「あれだけ飲んだのにまだ飲むんだな」
 笑い混じりでかけられた声に振り向くと、呆れつつも面白がるような表情を浮かべた宿屋の主人が立っていた。ライサンダーのいるこの酒場は宿屋に併設されたもので、当然、主人も顔を出すというわけだ。昼間はなかった前掛けを身につけ盆を小脇に抱えたクリスは主人というより給仕に近い。それはやはり若すぎる容姿のせいだろう。
 ライサンダーは空になった右手のそれを軽く揺すった。からん、と氷がぶつかる音がする。
 「まだ、ここに残ってたからね」
「にしたところで闘技場から帰ってきてからずっと飲んでるだろ。おっそろしいぜ」
「ここの麦酒、本当、おいしくって止まらないんだ」
 それにしたって、とクリスはライサンダーの脇に積み上げられた空のジョッキを見る。ちょこちょこ様子を見に来てはいるが、果たして彼はこの数刻でどれほどの酒を飲み干したのか。見た所つまみになるようなものは食べてもいないが酒だけでも支払う金額は相応になるのだろう。牽制の意味も込めてクリスは机に腕を置く。
 「そんだけ飲んどいて、懐の方は大丈夫なのかい」
「払う価値があると思ったらいくらでも払う主義だからねぇ、大丈夫だよ」
「へぇ。随分お金持ちなんだな、お客様は?」
「そりゃあそうさ。なんたって俺は凄腕の賞金稼ぎなんだからね」
 ライサンダーはへらりと破顔する。その気の抜けようはとても「凄腕の賞金稼ぎ」のものには見えなかった。目尻を薄紅色に色付かせ首に巻き付いた竜を枕にして眠ってしまいそうなほど首が座らない「凄腕の賞金稼ぎ」がいるものか。職業柄、クリスは酔っ払いの軽口は聞き慣れている。従ってそれらの話にへぇそうなのかすごいなと適度に相槌を打って聞き流すこともまたお手の物だった。(どうせどこかの家の坊ちゃんだがでっちあげた武勇伝を吹聴しないだけマシだ!)
 彼の頭が傾くたびに肩から流れ落ちる栗色の髪を見ると、さらりさらりと音が聞こえてきそうなほどである。旅人を自称する割につややかで枝毛も傷みも見られない。どれくらい手入れがされているかと言うと、そこらであくせく働く給仕の女より整っていそうだ。
 「全然関係ないけどさ、そっちの土地では男はみんな髪伸ばすのか?」クリスは露出した己のうなじに触れた。クリスの髪は短く刈り上げられている。「ここいらじゃ男はみんな短く刈るんだぜ」
「いや、俺のとこでもみんな髪は短いよ。邪魔だからね」
「じゃあなんでそんな鬱陶しい髪してるんだよ」
「それは、あれだよ、ほら……」
 ライサンダーがひらひらと掌を踊らせるが、後続する言葉はない。酒飲みにありがちな思考能力の低下だ。内心で額に手を当て、クリスは考える。べろべろになる前に部屋に連れて行きたいものである。
 「なんていうんだっけ……喉のこのへんまで出かかってるんだけど、あー……」
 「願掛け、でしょ!」
 弾けるような甲高い声がした。男とも女ともつかない、しかし酒場で耳にするのは些か違和感のあるものだった。虚をつかれたクリスは表情を変えることもままならず動きを止める。なんだ今の。そう思うがなかなか声に出すのは難しい。
 「そう、それ、願掛け。俺のこの髪は願掛け。あぁ、ようやくすっきりした」
「そんな言葉だって思い出せないなんてライサンダーはおかしなところが抜けている。まったく、君は人間として点でだめだね」
「でも俺知ってるんだよ、そんな俺だからこそあんたは俺のそばにいるんだろ、ボレア」
「ご名答!」
 目の前で繰り広げられる寸劇を眺めているうちにクリスも状況が掴めてくる。彼の首に巻きつく白い竜、それが会話に合わせ頭をもたげ尻尾を震わせ全身の鱗をうねらせるのだ。ボレアと呼ばれた白い竜はごく嬉しそうに口を開き、まるで笑っているかのようだ。しかし、果たして、クリスの知る竜というものは人の言葉を話す生き物ではない。この地にいたとされる竜がいなくなったこの時勢では御伽噺でしか名前を聞かず、酒気に当てられたのかと目をこすりたくもなる。
 「……ライサンダー、なぁ、そいつは」
「あ、ごめんよクリス。こいつはボレア、俺の道連れだよ」
「クリス? この人間のこと?」
 ライサンダーばかりを見ていた竜の顔がその時初めてクリスに向く。一人と一匹の視線がかち合った。
 その竜の双眸は燃え盛る緋がそのまま埋め込まれているがごとく煌々と、赤々と、きらめいていた。竜の瞳は宝石に例えるには生命が溢れて追いつかず、木の実に例えるには光が滾りすぎている。色のみを見るのであれば生き物の持つ独特の極彩、すなわち血潮の色とも言えるかもしれない。中央を縦に割く瞳孔の黒々とした様子はおよそ人間以外の目をしているというのにどこか知性を感じさせる。一歩街を出て森を歩けばこのような目を持つ生き物などごまんといるとライサンダーはわかっていたが、生まれも育ちも街の中のクリスにとっては大層不気味に映った。
 竜が自身と目を合わせていること自体がおかしいことはさておくとしてもおかしい、絵本で読んだ白い竜の目は青かった、ぼんやりとクリスは思う。赤い目をした竜はおおよそ黒い鱗を持つものだと思い出が歌っている。
 「クリス、君という人間は随分といい匂いがするね。ボレアのいっとう好きな匂いを纏っている。ボレアはクリスのことを気に入ったよ」
 白い竜はすんすんと鼻を鳴らした。鼻先がクリスの腹に触れそうなほどに首を伸ばしながら言ったがため、当人は一歩後ろへ引いてしまう。すると竜が今度は不満気に鼻を鳴らす。一連の流れを面白がってか、ライサンダーは目を細めて黙って見ていた。
 「あー、ボレア? だっけか。悪いんだけど、竜を見慣れてない人間って案外多いもんなんだぜ」
「そうなの?」
「そうなんだ。だから、その、あんまり近寄られると、ちょっとびっくりする」
「びっくり?」
 不思議で仕方がないと言いたげに竜が首を捻る。ひどく人間じみた動作である。
 「つまりは離れてくださいって言いたいんだよ、クリスは。わかってやりなよ」
 くすくすと笑い声を抑えながらライサンダーが竜に巻き付いた布を引いた。首がしまったのか竜は文句も言わず大人しく相棒の首元に収まる。クリスは気付くと早鐘を打つようにどきどきしていた胸をほっと撫で下ろすことができた。生まれた余裕からつい言い訳じみた言葉が口をつく。
 「悪かった。こっちは竜がしゃべれるものとも知らなかったんだ」
「ふん。言語を繰る生き物が自分たちだけだって思い上がるのはよした方がいい、人間風情が生意気だ。竜が持つ宝は多いんだ。言語を繰る以外の宝だって沢山あるんだからな!」
「ねぇちょっと、あんまり暴れてくれるなよ相棒」
 口を大きく開けては閉じ、いっそ神経質なほど高い声音で竜は言う。気に入ったとのたまったその口で、今度は喧嘩を売るのだ。言葉の選び方は尊大なくせに喋り方は子供っぽく発言の気まぐれさも少年少女のそれのよう。連れが連れなら相棒も子供っぽくもなるかとクリスは心の中で納得する。商売人であるクリスの表情はあくまでも友好的だ。
 「すまんすまん、竜ってのは結構気難しいもんだな。これ以上はもっと気に触ることを言っちゃいそうだ。そろそろ仕事に戻らせてもらうよ」
「ん」
「まぁなんだ、支払いは耳を揃えてきっちり、な!」
「だいじょぶだいじょぶ。任せて」
 念押しができれば良かった。クリスはそそくさとその場を後にする。できるだけ早く部屋に上がってほしい、という旨を伝え忘れたことにクリスが気づいたのはそれよりしばらく後のことだった。

prev next
back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -