クリスと呼ばれた赤毛は青年を見据える。不敵な表情を映した鈍色の瞳は雲の切れ間から覗く光がきらっと反射すると、深い緑色にも取れた。
 「危ないところだったんだぜ、お前。嘘八百吹き込まれた挙句にふっかけられそうになってたんだ」
「そうなの?」
「そーだよ。お前みたいに危機感がなさそうなやつなんか、特に狙われるぞ」
「そうだったのか」
 青年はこれっぽっちの動揺もしない。その姿は極めて平穏で、明日の天気の話でもするかのようである。彼はクリスに感謝することもなく、かと言って「クリスが詐欺師であるのでは?」といぶかしむ素振りも見せなかった。彼はただただ気の抜けた顔で緩慢に瞬くばかりだ。
 もちろん、クリスとて泣きながら額を地面に擦り付けて感謝されるとは思っていなかった。それでもそれでもなんらかの反応が返ってくると踏んでいたのだから、肩透かしを食らったような、神妙な気持ちになる。
 「あのなぁ。もっとこう、驚いたりするとかないのかよ」
「驚くほどのことでもないかなって思ったんだけど」
「もしあのまま騙し取られてたらとか考えてさ、焦ったりとかもしないわけ?」
「うーん。俺はあのまま案内されてあいつの言うでまかせを本当だと信じたとしても、ふっかけられた金を払うに値しない話だったと思ったら俺は適当に振り切っていたさ。金を払うに値する面白い話だったら、それはそうだね、でまかせにもでまかせなりの価値があるってことだよ。俺は楽しませてもらう立場なわけだし」
 なんなんだ、こいつのお気楽さは。
 青年が語れば語るほど、クリスは全身から空気が抜けてしぼむような錯覚を覚える。異邦の者というものは、警戒心を持って自衛に努めるもののはずなのに。これではまるで隣町に探検にやってきただけの十やそこらの子供と同じだ。自身の身に迫った危機をまるで実感していない。
 「ああいった類を振り切るのはかなり難しいと思うぜ」
「さぁ。それはどうだろう。土手っ腹を二三回つついてやればいいんだから、簡単だろ」
 青年も笑って言うからには冗談を言っているつもりなのだろう。でなくてはあまりにもあんまりな暴論だ。クリスは頭を振って呆れ返る。
 「……もし、本当につつくだけなら、追っ払えやしないぞ」
「まぁ、だろうね」
 あくまで青年は終始にこやかな表情で佇んでいるのがまた見ている方の不安を煽る。自分もまた随分と変わった奴に構ってしまったものだ、クリスは気を取り直すために一つ咳払いをする。ただのお人好しで彼を助けたわけでもないのだから。
 「お前、名前はなんて言うんだ?」
「ライサンダー。ライサンダー・レーヴェンツって言うんだ」
「ライサンダーだな。こっちのことはクリスって呼んでくれ」
 ライサンダー・レーヴェンツ。名も姓もこのあたりでは聞かない名前だ。恐らくクリスの住む街より幾分か北にある土地からやってきたのだろうがクリスにとってそんなことは取るに足らない些細なことである。重要なのはこれからの話だ。
 「ところでライサンダー、お前よそのもんなんだろ? だったらこの街で泊まる宿はもう決めたかい?」
「まだだね」
「そいじゃあどうだろう、うちに来ないか? うちに置いてある酒ってここいらじゃ一番美味いって評判なんだぞ」
 宿屋の主人はどこか得意げに言った。クリスの提案に、ライサンダーは顎に手を当てて唸る。ぼったくり宿なのか否かを考えているというより、酒に興味を惹かれたようだった。例の如く彼は額面通りの言葉を受け取っていた。
 「お酒ね。悪くないな。麦酒ってある?」
「もちろん!  とびっきり美味いやつがあるぜ」
「じゃ、あんたのところでお世話になろうかな」
 クリスが握りこぶしを作ったことにライサンダーは気付かない。その表情が打って変わっていかにも上機嫌であったので、実によく働く表情筋だなぁくらいのことを考えている。クリスの頬を摘んだらよく伸びそうだ。試してみようと彼が手を伸ばすと不意に歩き始めた。所在をなくした手はそのままクリスを追いかける。
 「なぁ、どこへ行くの」
「いや? さっきロベルトじゃないけどさ、このあたりの案内できるからさっき言っていた闘技場連れて行ってやろうと思って」
「あんた、買い出しの帰りなんじゃないの?」
「留守番はちゃんといるさ。ちょっとくらいさぼったっていいだろ」
 話しながらもクリスはどんどんと進んでいく。結局、ライサンダーは一も二もなく小走りで駆け寄るのだった。


◆◇◆◇◆


 そこは天井のない造りでありながら、観衆の熱狂がひしめいていた。氾濫する音が喝采なのか怒号なのかライサンダーには判別が難しい。慣れた顔でクリスはライサンダーの前を行くが、後に続く彼は薄く口を開けてあたりを見回すばかりだった。拳を振り上げ「やれ」だの「そこだ」だの「くそったれ」だの好き勝手に絶叫する人々の姿はさすらいの旅人の彼ですらそう見かけないものである。
 闘技場は円錐を逆さにしたような形ですり鉢に似ている。観衆は剣闘士らがしのぎを削る舞台を囲んで見下ろすことになる。今試合をしているのは痩躯の女剣闘士と、身の丈が彼女の倍ほどもありそうな大柄の男剣闘士だ。
 女剣闘士の得物は彼女の体に見合った細身の剣だった。それは彼女の体の一部であるのように動き、燕が降下するがごとく突いては離れ、切り込んでは飛び退りを繰り返す。他方の剣闘士が戦斧(バトルアックス)を振るっての一撃はのろい分重たい。女剣闘士に目立った怪我のないのはすべての攻撃を躱したことに違いない。そうでなくてはもうとっくに勝負は決まっているはずだ。女剣闘士がたった一度でも受ければ戦いはたちまち決するだろう。つまるところ、どちらが勝つにしても相手より少しでも長く体力を保たせた方が勝つ試合だ。それらはライサンダーの目には退屈ないたちごっこにしか映らなかった。
 試合を見ることに気をやりすぎていたらしい、ライサンダーは前触れもなしに足を止めたクリスにぶつかりかける。抗議の一言や二言をこぼしたがクリスがそれを聞いているようには見えない。反対にクリスの方もなにか言葉を発しているようだった。二人の台詞は喧騒にかき消されお互いに届く前に消える。とうとう堪えられなくなったクリスがライサンダーに向き直り、彼の襟首を掴んで――上背のライサンダーと小柄なクリスとでは大分身長差があったのだ――耳元に口を寄せた。
 「ライサンダー! ここいらなら金は取られないで試合を見られる! 立ち見でもいいか!」
「構わないよ! ここからでも十分眺めがいいから!」
「そうか! そいつはよかったぜ!」
「え!? 今なんて言った!? 茨(ソーン)は痛かったって!? 痛くない茨なんて萌え出たばっかりばらにしかくっついてないよ!」
「ちっげーよ! もういいから試合見てろ!」
 クリスは掴んだままだった襟首を引っ張り闘技場の中心部の方へ突き放した。勢いのまま前につんのめりかけながらライサンダーが目にしたのは、先ほどより傷を増やした剣闘士と相も変わらず俊敏に動く女剣闘士だった。
 それにしてもつくづく好みでない試合展開だなあ、とライサンダーは思う。剣を手にしているのなら振り回したり突き刺したりするよりもぶつけ合う方が断然楽しい。金属と金属が激しく衝突し甲高い音を立てて軋む様は彼の精神を大変に昂らせる。もっとも、そんな試合が行われたとしてもこの闘技場のように騒がしくては彼のいる場所に臨場感は届かないだろうが。
 血肉を懸けて命のやりとりをするのなら対等な力でもって行われるべきだというのがライサンダーの持論だ。男と女では基礎的な体力に差があるのだから拮抗する試合が見られるはずもない。今試合を行っている剣闘士らではなおさら体格差が際立つ。たとえが男女間での争いが拮抗したものになったとしても、その内容は技術や相性に左右されて純然たる力比べではなくなってしまう。異なる種類の力の衝突など、ライサンダーに言わせれば悪趣味な娯楽である。本物の闘争とはもっと純然たる力のぶつかり合いだと彼は信じていた。
 もう見飽きた。つまらない。そう感じたライサンダーが「もう宿へ移ろうか」と言いかけた。そこで彼はようやくクリスの視線の先がすり鉢の底でないことに気付く。灰色の目は競技の上を通り過ぎてより遠くを眺めていた。「誰見てるの?」尋ねるとあからさまに驚いた顔をしてクリスが彼を見上げる。なにか言いたげだが口を開こうとしない。一瞬の当惑のちライサンダーが身を屈めた。
 「いきなり驚かせるなよ」
「そーお? ごめんね」
「あー、誰見てたかだって話だよな。ほら、あすこの……」
 クリスが指差した先は、すり鉢の対岸の中腹にある張り出した箇所。そこだけは天板を乗せたように平たく造られていた。恰幅の良い男が中央に位置する椅子にどしりと腰掛けて、軽装ながらも金属の鎧を身につけた男二人がその脇を固める。十中八九、守られているあの男こそがこの闘技場の支配人である。その証に、護衛とおぼしき彼らが腰に下げている剣は試合で使われるものよりずっと値の張りそうなものだ。遠目から見てもわかるほどなのだから、さぞ良い品なのだろうライサンダーにもわかる。さてそれを携える人間の方は如何程かとライサンダーが目を凝らすより早くクリスの声が割って入った。
 「向かって右側に、髪の黒い護衛がいるだろ。あれ、幼馴染なんだ。ちゃんと仕事してるなーって考えてたんだよ」
 最後の方の言葉は、突如湧き上がった歓声にかき消されライサンダーには聞こえなかった。すり鉢の底、観衆の関心の向かうところでは地に伏した女剣闘士と満身創痍ながらも騒がしさの中で自己を主張するように吠える男剣闘士の姿があった。「俺に敵うと思い上がる馬鹿野郎がいたら名乗りをあげろ! くびり殺してやる!」
 決した勝負に対して観衆は各々思いの丈をぶちまけて、それのおかげで闘技場は気も狂わんばかりの音で溢れている。
 そんな中ライサンダーの意識は暴力的とすら言える爆音からも遠のいていた。意識を持っていったのはクリスの幼馴染であるという、その男。胸部と肩を守る簡単な鎧を身で厚みのある身体を覆う、すっくと背筋の伸びた黒髪の男だ。
 肩幅程度に開いた足や、さり気なく柄に置かれた掌、どこにも隙を作らない彼は今この瞬間にでも動き出して一呼吸もおかないうちに人を殺せるだろう。彼が身に纏った殺気はライサンダーにそう思わせるだけのものであった。あれは雰囲気や威圧感、そういった言葉で片付けられるほど生易しいものではない。彼の反対側に控えるもう一人の護衛の、鍛え上げるだけ鍛え上げて鞘に収めた剣とも異なるもの、抜身の刃物そのものだ。
 ライサンダーは我知らず唇を湿らせ息を潜める。さながら標的を見つけた豹が藪の中から対象の様子を伺うように。口元がいびつな三日月を描いたその時、その男の瞳がライサンダーを捉えた。「ライサンダー?」名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが彼は気にも留めない。ライサンダーの琥珀の瞳を射抜く眼差しは確かな意思を持っている。やつは気付いたのだ、俺の視線に。数え切れない人々がひしめく、この喧騒の中で。
 「ライサンダー? もしかして、わからないか?」
「いいや、わかる。見つけたよ。ちゃんと見つけた」
 ライサンダーのひとりごとじみた呟きは歓声に紛れ、溶けて消えた。
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