濡れたような光が降り注ぐ。薄手の雲をまとった半分だけの月が空を横切って行く。濃紺の天のあちこちに散らばる星は、細かに砕けた硝子のかけらにも見える。
 クラウスの瞳は見知った光を探して星の海を漂う。見ようとするものの距離が遠ければ遠いほど、小さければ小さいほど視界は霞んだ。凹レンズによっていくらか補正されてはいるものの、彼にとって見えづらいものに変わりはない。結局、彼は求めたものを見つけるより先に目を伏した。
 遠くは見えずとも夜目は効く。それは彼が人の形をしただけの別の生き物がゆえに持つ能力である。そのために彼は十歩ほどのところに佇む人がいることに気が付いた。背中を覆い隠してしまうほど長い髪が目を引く人影だった。

 「やぁ、いい晩だね」

 人影が振り返る。細面で端正な顔立ちをした人だった。右の目尻にほくろがあるのもまた特徴的である。体の線は細いが、男とも女とも断定しきれない青年だ。
 青年は口の端を上げて微笑んでから恭しく頭を下げた。折り目の正しいその動作にクラウスははたと違和感を覚える。月明かりの他になんの光もない晩に、距離の離れた人と視線を合わせるのは難しい。クラウスが見えていても向こうが同じように見えるわけではないのだから。
 歩み寄ってみれば、顔に見覚えはない。もとより、異なる世界線を飛び回る彼は『休息場』にいる魂のすべてを知るわけでもない。だからこそ、対峙するその人が初対面であることがわかった。

 「きみを見るのは初めてだよ。最近新しく来た子なのかな?はじめまして、ぼくはクラウス、天使さ。」

 クラウスが手を差し出した。手のひらを握ると、青年は笑みを深める。微笑み返したクラウスの紫苑の目が、青年の眼差しを捉えた。暗がりでもよくわかる、薄荷色の目をしている。否、明るい場所で見ればそれよりももっと鮮やかな色をしているやもしれない。瞳孔の浮いた瞳は微弱に発光しているようにも見えた。
 青年は黙り込んだままである。あまりまじまじと眺めすぎたかな、とクラウスは内心で舌を出す。と、青年がやおら口を開いた。

 「お初にお目にかかります。こちら、名をサルヴァトーレと申します。貴方様ともうお一人いらっしゃるであろうお方に次ぐ、三番目の天使にございます。」

 三番目の天使。あぁそうか、天使ももう三人になったのか!
 クラウスの表情がぱっと明るくなったかと思えば柔らかく綻ぶ。先ほどまで浮かべていた歓迎の笑みとは異なる、喜びの感情を露わにした笑みだった。

 「きみ、天使だったんだね!どうりで不思議なところがあると思ったら、そうだったのか。ぼくは新しい天使のきみに会えてすごく嬉しいよ。」
「天使になったばかりで不束ではございますが、よくしていただければ大変喜ばしく思います。」

 青年サルヴァトーレは大げさに思えるほど丁寧な態度である。絶えず柔和な顔を崩さず、まっすぐにクラウスを見つめている。誠実なのは人だろうと天使だろうと美徳であることに変わりはないが、他人に過度な遠慮をしない性分の彼からすれば少々息苦しかった。
 はたしてこれはサルヴァトーレが真面目であるが故の敬語なのだろうか。どうあれ、クラウスからすればなんだかこそばゆくなる言葉遣いだ。一言二言言ってやる分に悪いことではないだろう。

 「ぼくにそんな堅い言葉は使わなくてもいいんだからね。そういう他人行儀なのって、どうにも慣れなくてさ。」
「そうおっしゃられる貴方様の心中を察することはできるのですが、このような大仰な言葉選びはいわば自我の同一性を保つためのものでもありまして。どうかご勘弁くださいませ。」
「……ん、使いたくないならいいさ。気にしないことにするよ。」

 ずいぶんとまだるっこしい言い回しをするんだね、きみは。
 クラウスが頭を傾ける。サルヴァトーレは気まずげに肩を竦めた。やだな、ちょっとからかっただけさ、口角を上げて見せたクラウスはひらり手を振った。彼は鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌である。

 「キーロにはもう会ったかい?」
「もうお一方の天使でしょうか、そちらの方のお顔は未だ存じ上げておりません。」
「そっか、じゃあ会いに行こうか。」
「今から、ですか?」
「そう。今から。」

 サルヴァトーレはやや反応が鈍い。はやる心でいっぱいのクラウスは、とうとうサルヴァトーレの手を掴み取る。戸惑う彼の手を引いてクラウスは駆け出した。返事を待っているだけの余裕がなかった。
 さぁ、かわいい妹分もきっと彼が現れたことを喜ぶはずだ。眠たげなまなこにどんな光を映すのか、白磁の肌に何色を映すのか、胸は踊る。
 弾んだ声でクラウスは半ば叫ぶように言った。これほどまでに気分が高揚するのはごく久方ぶりのことだった。

 「ちょうどぼくもキーロのところに行こうと思ってたんだ!いいだろう?」
「え、えぇ!もちろん、構いませんとも!」
「それじゃあ行こうか!まぁ、もう走ってるけど!」

 本来、天使は人間よりいくばか疲れづらい体であるというのにクラウスの呼吸は乱れている。同じく走っているサルヴァトーレの方はと言えば、なびいた髪以外乱れたところはない。クラウスは思わず軽やかな笑い声を上げる。
 サルヴァトーレが普段の彼の気質を知ることとなったのは、またしばらく後のことだった。



眼鏡天使と演者天使の初対面



(ちょっと興奮しちゃった、ごめんね)
(お気になさらず。あれほど喜色満面という言葉が似合う表情はないと思いましたよ)
(なんだか恥ずかしいなぁ)
(悪いことではないでしょう、歓喜に満ちた貴方様は大変美しゅうございましたよ)
(褒めてもなにも出ないよ)



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