無垢な心を置いてゆけ


 メインストリートから少し外れた場所にあるカフェテリア。さほど広くはない店内は煎れたてのコーヒーや挽きたての豆の匂いで満ちている。その一角、窓際にあるテーブル席に腰を据えて一体どれほどの時間が経っただろうか。ビストロチェアの固い金属製の背もたれが背中に食い込んで痛いくらいだったが、それでもまだ立ち上がる気にはなれなかった。大きなガラス窓から外を眺める。暖かな日差しが差し込み、行き交う人々も心なしか浮き足立っているように見える。あの日、多くの人間が命を落とした街だなんて嘘みたいだった。
 ――9月4日。あの日見た幻影から、私は未だ抜け出せずにいる。
 ここ最近、何をするでもなく街外れのカフェで時間を潰している。ハンターになったらそれなりにやりたいことがあった筈なのに、今は靄がかかったようにぼやけて遠い。鮮烈に浮かび上がるのは9月4日の出来事ばかり。仲間たちはそれぞれの道を進んでいるというのに、私だけがあの日に置き去りにされたままだった。

(私、どうしちゃったんだろう)

 何かが狂わされた。でも、きっと一時的なものだろう。異常な人間の毒気に当てられただけ。カフェに通うのは一種の毒抜きだ。かつての正常な自分に戻るためのリハビリのようなもの。こうして日常に溶け込んでいればきっと忘れられる。胸の内を揺さぶる葛藤も、何もかも。
 ふと窓ガラスに映り込んだ自分の顔が目に入る。まるで生気が感じられない虚ろな顔がそこにはあった。これじゃあまるで亡霊だと自嘲気味に口元を歪めた。

 しばらくぼんやりしていると、店内の喧騒が増したことに気がついた。昼時を迎え客が増えたようだ。そろそろ店を出ないと店員から白い目を向けられるだろう。そんなことを考えながら視線を一巡させると、とある客が目についた。
 こちらから対角に位置する席で男が本を読んでいた。俯いていてよく見えないが整った顔をしていることが分かる。その一角だけ別世界の感があって、目が離せなくなった。同時に、胸の奥がさざめく。そうして眺めているうちに、とうとう気付きが訪れた。
 ――あの男だ!
 心臓が止まった心地で視線を外す。あの男だ。今日は髪を下ろしていて、白いシャツに黒のスラックスというラフな格好をしている。だが間違いない。体中の細胞があの男だと訴えている。

(どうしてここに? ヨークシンからは離れたはずじゃ……)

 恐る恐る男の方を窺い見ると、相変わらず涼しい顔で本を読んでいた。こちらに気づいた様子はない。席が離れていて助かった。男から視線を外し、テーブルの上のカップを見下ろす。ついつい吸い寄せられそうになる視線を必死に手元に縫い付けた。
 血の波が沸き立って体に漲り渡るような心持ちがする。まるで止まっていた心臓が動き出したかのようだった。その感覚が恐ろしくてたまらなかった。呑み込まれてはいけない。早くこの場から逃げ出さなくては。
 カップにたっぷり残ったコーヒーを恨めしく思いながら、ゆっくりと口をつける。ここで慌てたら終わりだ。平然を装わないと。極度の緊張に苛まれてキリキリと痛む胃にコーヒーを流し込む。カップを持つ手が震えないように細心の注意を払いながらソーサーに置いた。不自然にならないタイミングで一息ついて、テーブルの隅に置かれた伝票に手を伸ばした時だった。

「――なんだ、もう出るのか」

 穏やかで低い声が降ってくる。反応できずに固まっていると、向かいの席に誰かが腰を下ろした。

「挨拶もしないで帰るなんて随分じゃないか?」

 まるで親しい友人に語りかけるような口ぶりで話しかけられる。逃げることは不可能だと察し、観念して視線を持ち上げた。
 そこには、私を狂わせた元凶――幻影旅団の団長であるクロロが座っていた。

「この間は世話になったな」

 砕けた口調はそのままに冷ややかな笑みを向けられる。
 いつの間に目の前に来ていたのだろう。クロロはゆったりとした所作で頬杖をつくと、こちらを見つめてきた。
 あの日見た幻影が、確かな輪郭をもって私の目の前に存在している。

(落ち着け、落ち着け……)

 頭の中で繰り返すが動揺がおさまる気配はない。今、私はどんな表情を浮かべているだろうか。きっとひどい有様に違いない。

「仲間はどうした?」

 親しげに尋ねられ、思わず身を強張らせる。それでもなんとか言葉を絞り出した。

「みんなとっくにヨークシンを発ったわ」
「ついていかなかったのか?」
「常に行動を共にしてるわけじゃない。あの時、彼らに協力してたのはただの気まぐれで……」
「気まぐれ、ね」

 意味ありげな呟きに嫌な予感が湧いて出た。

「その気まぐれで人の念を封じておいて、お前はこんなところで優雅にコーヒーを飲んでるってわけか」

 棘の孕んだ言い回しに体がすくみ上がるような息詰まりを感じる。何も言えない私を冷めた目線で一瞥して、クロロは続けた。

「こっちは神経すり減らしながら過ごしてるよ。うっかり念を使おうものなら即死だからな。団員とも接触できないから不便で仕方がない。鎖野郎はなんだってこんな制約をかけたんだろうな。俺に部屋でおとなしく本でも読んでいて欲しいのか?」

 やさぐれたような物言いに、私は内心呆気に取られていた。
 目の前の男は、本当にあのクロロなのだろうか。記憶の中の彼とあまりにも印象がかけ離れていて、まるで別人のように映った。
『オレにとってこの状態は昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏なものだ』
 危機的な状況にあっても眉一つ動かさず言い放ったおそろしい男。思い返すたびに不気味で、化け物じみていた。だけど、今こうして目の前で愚痴をこぼす姿はやたらと俗っぽくて、その落差に頭がくらくらしてくる。

「わざわざ私に話しかけてきて、一体何が目的?」

 恐る恐る尋ねると、クロロは片目をすがめた。

「目的? ないよ、そんなもん。無駄に苦労させられてる当てつけに愚痴ってるだけだ」

 あっさりと否定されて、頭の中であれこれと打ち立てていた仮説が崩れ去った。この男にとって私への接触はただの暇つぶしに過ぎないというわけか。取るに足らない相手だと軽んじられている憤りはあったが、それよりも安堵する気持ちが勝った。とりあえず、今この場で何かをするつもりはないと思っていいだろう。
 ようやく胸の動悸がおさまっていくの感じながら、眉間に力を込めてクロロと目を合わせた。

「暇を持て余してるってわけね」
「ああ、おかげさまでね」
「暇つぶしなら他を当たって欲しいんだけど」
「つれないこと言うなよ。人にこれだけ迷惑をかけたんだから、少しくらい付き合ってくれてもいいだろ?」

 からかい混じりの口調だが、有無を言わせない圧力があった。これ以上逆らっても得策ではないと判断して、私は小さくため息をつく。

「私を人質にでもするつもり? 他の連中ならともかく私にその価値はないよ」

 あなたと違ってね、と心の中で付け足す。するとクロロはほんの僅かに目を丸くさせた。

「随分と自分を卑下するんだな」
「別に卑下してるわけじゃなくて、事実だからそう言ってるだけ」

 それは紛れもない本心だった。もし私がこの男に捕らえられたとして、クラピカはゴンとキルアの時と同じように動いてくれるだろうか。――今の私は、果たしてそれを望むだろうか。

「ふーん。仲間割れでもしたのか?」
「そういうわけじゃないけど……」

 視線を落として、テーブルの上に置いた自分の手を見つめる。
 脳裏にゴンたちの姿が浮かぶ。ハンター試験で出会った彼らのまっすぐさや意志の強さに惹かれたのは事実だ。彼らのことは今でも仲間だと思っている。
 だけど、気付いてしまった。彼らと自分の間には埋め難い溝があるということに。目の前の男の存在によって、気付かされた。

「……協力なんてするんじゃなかったって、今は後悔してる」

 あの時断っていれば、この男と出会うこともなかった。自分の中の異常性に気づくことも。

(どうしてまた声をかけてきたんだ。せっかく忘れようとしてたのに)

 クロロを睨みつける。さっさと目の前から消えてくれ。言外にそんな意味を込めて。しかし、こちらの視線を真正面からとらえて、クロロは微かに得心のいった表情になった。

「なるほどな。どうやら俺はお前に興味があるみたいだ」
「――は?」

 咄嗟に脳が理解しきれずぽかんとする。まじまじとクロロの顔を見るが、その表情からは何も推し量れなかった。

「なに、それ……」

 下手な口説き文句だと笑い飛ばそうとして失敗し、唇を噛んだ。たった一言でこんなにも揺さぶられてしまう自分に辟易する。

「言葉通りの意味だよ。お前のことをもっと知りたいと思っている」
「……なんだか詐欺にでも遭ってる気分だわ。それとも何かの勧誘?」

 動揺を隠すように皮肉めいた笑みを浮かべてみせるが、クロロはただ静かに見返してきただけだった。その凪いだ眼差しに耐え切れず、顔を背ける。

「勧誘か……いいな、それ」

 独りごちるように呟くと、クロロは不穏な笑みを見せた。嫌な予感が頭をよぎる。

「いいかげん大人しく引きこもってるのも飽き飽きしてたところだ。体が鈍って仕方がない」
「何が言いたいの?」
「お前に俺の身辺警護を頼みたい」
「はぁ?」

 予想外すぎる提案に間抜けな声が出る。身辺警護? 私が? この男に? あまりの突拍子のなさに呆気に取られていると、クロロは背もたれに寄りかかって脚を組んだ。

「思った以上に疲れるんだよ、この生活。どんな些細なことが命取りになるか分からないからな。出かけるときにボディガードがいたら安心だろ?」
「……信じられない。どういう神経してるの」
「もちろんタダとは言わないさ。それなりの報酬は払うつもりだ」
「そういう問題じゃない。どこの世界に仲間の仇の身辺警護を請け負う奴がいるのよ」
「そうか。ならこうしよう。取引に応じるならお前の仲間を追うのをやめてやる。お前次第だが、どうする?」

 一瞬思考が止まる。クロロは私の反応を楽しむかのように目を細めた。

「……脅しのつもり?」
「そうだな。そうしてやったほうがお前にとって都合がいいんだろう?」
「なにが」

 反射的に聞き返す。たまらなく嫌な予感がするのに、その先を求めずにいられなかった。クロロがテーブルに肘をついて身を乗り出す。縮まった距離に、心臓の太い血管がぎゅうと音を立てた。

「お前もこっち側だろう?」

 耳元で囁かれた瞬間、息の仕方を忘れた。
 胸にずぶりと剣を刺された気分だった。負わされた傷は深い。再び立ち上がろうという気を根こそぎ奪うほどの。

「ちがう……」

 なけなしの力で振り絞った否定はもはや意味も為していない。クロロは椅子を引いて元の位置に座り直した。

「自分の欲望に素直に従ったらどうだ?」
「そんなの、獣と一緒だ」
「獣か。いいじゃないか。獣風情が人間のふりをする方が滑稽だと思わないか?」

 思わず息をのむ。クロロの言葉には雑念を振り払う迫力があった。
 自分の中の何かが崩れていく音が聞こえる。それを必死に繋ぎ止めようとする理性の声はあまりに弱々しく、とても頼りにならない。

(――ああ、もうダメだ)

 胸の奥底から湧いた感情は諦観だった。私はもう、自分の中の異常性を無視できない。
 これからの人生を思って暗澹たる気持ちに陥り、がっくりとうなだれる。そんな私の様子をしばらく眺めていたクロロだったが、やがて興味が失せたように短く息を吐きだした。

「取引に応じるならここに来い」

 伏せた視線の先に、紙切れが現れる。数秒の間その紙を眺め、次に顔を上げたときにはもうクロロの姿はなかった。
『お前もこっち側だろう?』
 クロロの声が頭の芯までこだまするように響いている。耳を塞ごうにもその声はあまりにも大きく、到底逃れられそうにない。
 その時ふと、ある変化に気がついた。さっきまで磨りガラス越しのようにぼんやり見えていた光景が鮮やかな輪郭を描き、店内の喧騒も、コーヒーの匂いも、五感で感知できるものすべてが生々しく私を刺激する。まるで、世界の幕開けのようだと思った。
 手を伸ばし、クロロが残した紙切れを手に取る。きっと私はここに記された場所を訪ねるだろう。そんな確信めいた予感がした。


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