花咲く深淵


 猛獣の巣に足を踏み入れてはならない。子供でもわかることだ。それでも歩む足を止められないのは体が甘い水に満たされる感覚を覚えているから。いま私は、抗えないものの渦中にいる。

「やあ、遅かったね」

 指定されたホテルの一室のドアを開くと、ヒソカがソファに座っていた。指先でトランプをくるくると回しながら薄く笑っている。

「誰にも見つからなかったかい?」

 私は頷いた。

「そ」

 白く長い指がトランプを弾く。ひらひらと宙を舞い絨毯に落ちるそれを目で追いながら、どうしようもない喉の渇きを覚えた。

 彼と初めて会ったのはハンター試験だった。血が滴るトランプを片手に、残忍な笑みを浮かべる危険な男。頭の中で警鐘が鳴り響く一方で、体の奥にある何かが発熱して動き出す予感がした。あくまで予感だったが、ダメだと思った。底のない、開けてはいけない何かに触れてしまったような恐怖がそこにはあった。
 この男には絶対に近づかない。近づいてはいけない。そう自分に言い聞かせていたのに、彼は事あるごとに私の前に現れた。正確には、私たちの前に。きっとヒソカはすべてを見透かしていたんだろう。甘い水で誘われ、いたずらに翻弄されて、いつのまにか彼の手に落ちていた。
 それでも理性をすべて捨てきれたわけじゃない。仲間を裏切っている罪悪感は常に胸の内にある。だから、この期に及んで尻込みしてしまうんだ。そんな私を嘲笑うように、すっと切れた傷のような細い目が細められた。

「おいで」

 ヒソカの唇が甘く閉じられ、腕を広げられる。思わず生唾を飲み込んだ。ああ、ダメだ。彼を前にすると罪の意識など消し飛んで、ただただ触れたいと思う。吸い寄せられるようにして、腕の中におさまった。

「ん………」

 抱え込むように力強く抱き締められた。目の前にヒソカの白い喉仏がある。つむじのあたりに顎を乗せられている重みを感じた。襟首から甘い香りが立ち昇って頭がくらくらする。熱い。首の後ろが、背中が、全身が熱くてたまらない。

「ふたりだと本当に静かだね、キミ」

 ヒソカはくつくつと笑って、子供をあやすみたいに頭を撫でた。恥ずかしさで顔が赤くなる。同時に、背筋がきゅうと甘えた音を立てた。
 目を瞑って、おそるおそるヒソカの背に腕を回す。一度触れるともうダメだった。感情が溢れて制御できなくなる。遠慮のない力でしがみつけば、手首から二の腕までを鳥肌が滑った。
 人を殺める腕なのに、どうしてこんなにも満たされてしまうんだろう。求めるままに身を任せて、すべてを手放してしまいたくなる。ああ、崩壊する。

「……っ」

 絶対に言ってはいけない二文字が口からこぼれ落ちそうになって、ぎゅっと唇を噛みしめた。まだ、まだ引き返せる。こんなのただの一過性の熱だ。私は、まだ、まともでいたい。

「全部ボクのせいにしてしまえばいいさ」

 いつものからかい混じりの口調はなりを潜め、ただひたすらに優しいものに変わる。それは無関心なものへと向けられる空虚な優しさだった。
 きっとヒソカが飽きたら終わる逢瀬だろう。それでもいい。いつかは醒める嘘だとしても、どうか夜明けまではそばにいて。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -