儘ならない恋
今、私は黒塗りの高級車に乗っている。いや、正確に言えば乗せられている。ゆったりとした後部座席の乗り心地は良いが、気分は最悪だった。隣に座った男のせいで。
――遡ること数十分前。友達とランチの約束をしていた私は、待ち合わせの店へと向かっていた。その最中のことだ。現れた胴長の車に横付けされ、抵抗する間も無く連行された。突然の出来事に目を白黒させる私に向かって車の中へと引きずり込んだ張本人――イルミは、「や、久しぶり」と何の悪びれもせず言い放ったのだ。
革張りのシートの端に座る存在を、ギリギリ悟られない範囲で横目に見る。イルミは窓際に肘をついて澄ました顔で窓の外を見ていた。人を連れ去っておいてこの態度。本当に腹立たしい。
犯罪まがいの強制連行を辛うじて耐えられているのは、イルミと私が一応恋人という関係にあるからだ。「一応」なんて前置きするくらい恋人らしい空気になったことは皆無だけれど。イルミの身勝手な振る舞いのせいで、顔を合わせるたび口論を繰り広げている。
イルミはいつもこうだ。自分の好きな時に呼び出して、断ったら問答無用で連れ去る。こちらの都合なんてまるで無視。私から会いたがっても一度も応えてくれたことなんてないくせに。世界はお前中心に動いてるのか?と何度聞いたか知れない。その度に当然のように頷かれるのを思い出してまた苛立ちが募った。
顔を背けるのも癪で、まっすぐ前を向く。しかし、嫌でも視界の右端に映る存在を意識してしまう。
(いきなり連れ去るのは困るからやめてってあれだけ言ったのに、どうして聞いてくれないの?自分勝手にもほどがある……)
どんどん不平不満が腹の底に溜まっていって、あっという間に最大限度に達する。そうしてまた私は、不毛な言い合いをふっかけた。
「いい加減にして」
イルミが機械的な動きでこちらを向く。片目があざけるように眇められるのを見て、腹の底で蟠っていたむしゃくしゃした気持ちが沸返った。
「どうしていつもこう無理矢理なわけ?友達と約束してたのに……」
「いらないだろ?友達なんて」
出た、友達いらない理論。この議題はいくら話し合ってもお互いの主張が平行線を辿るだけだから、もう蒸し返したくない。
「そういうことじゃなくて。少しはこっちの都合を考えてよ。私はイルミの所有物じゃない」
「あっそ。勝手にそう思ってれば?」
「なんでそんな言い方するの」
「やけに突っかかるね。なに、生理?」
デリカシーの欠片もない言葉にかっと頭に血がのぼる。
「最っ低……」
「なんだ図星か」
なら仕方ないか、とイルミはさも面倒だと言わんばかりに溜息を吐いた。勝手に自己完結されてひどく腹が立ったが、同じくらい悲しくなってくる。
どうして私の意見に耳を傾けてくれないんだろう。ほんの少しでいいから歩み寄って欲しいだけなのに。どうしてそんなに冷たく突き放すの?恋人なのに、どうして……。
思考がどんどんネガティブな方向に進んでいって、つらくなってくる。そうして、気付けばお決まりの台詞を口走っていた。
「どうせ、私のことなんて嫌いなんでしょ」
あぁ、またやってしまった。言った瞬間後悔するがもう遅い。
これまで何度同じ言葉をぶつけたことだろう。その度にイルミは不愉快そうに眉を顰めて私をこき下ろしてきた。でも、一度だって肯定されたことはない。だから、どんなにボロクソに言われても性懲りも無く確かめてしまうんだ。
いつから私はこんな面倒くさい女になってしまったんだろう。こんな自分が嫌で嫌で仕方ないのに、イルミといると何もかも儘ならない。
「あのさ」
冷たい声はいつものこと。でも、次に続いた言葉はいつもと違った。
「それいつも言うけどさ、じゃあナマエはどうなの?」
「え……」
顔をあげるとイルミと目が合う。底の見えない真っ黒な瞳に、怯えたような私の顔が映り込んでいた。
「どうせオレのことなんて嫌いなんだろ?」
言ったことをそっくりそのまま返される。これまでにない反応にたじろいた。
嫌いだと言えば少しは態度を改めてくれるだろうか。でも、もしそれで切り捨てられたら……そう思うと、胸が閊えて続く言葉をうまく紡げなかった。
「だんまり?」
視線を逸らすが、あごを掴まれ強制的に視線を合わせられる。目の前に迫ってきたイルミの瞳はいたぶることを楽しんでいるように見えた。
「いつもお前が聞いてることだよね?答えろ」
低い声が耳に響く。答えるまで解放してくれそうにない。でも、嫌いじゃないと答えるのはどうしても癪だった。こいつの思い通りになんてなりたくない。なのに、やっぱり儘ならない。
「イルミのこと、なんて……」
声を絞り出した途端、視界が滲む。
「っ、きらいに、なりたい……っ」
言った瞬間、目の端から涙が伝い落ちた。
こんな厄介な男、嫌いになれたら楽になるって分かってるのに、どうやったって嫌いになれないんだ。
悔しいとか恥ずかしいとか色々な感情で頭が埋め尽くされる。高ぶる気持ちと相俟って涙がどんどん溢れた。顔を背けたいのに、顎を掴まれているせいでそれも叶わない。
「はは、笑える」
イルミの顔に愉悦の色がにじむ。泣いてるところを見られるのが一番嫌なのに、イルミは泣き顔を見る時が一番嬉しそうだった。あまりの屈辱にまた涙が出た。
「ま、ナマエの意思なんてどうでもいいや」
ひどい、と声にならない非難が口からこぼれる。イルミはさらに続けた。
「ナマエがオレを嫌おうが関係ない。オレから逃げたら殺すよ」
言われたことのおそろしさに喉の奥がひりつく。でも同時に、イルミからのいびつな執着に安堵を覚える自分がいた。いつのまにかすっかり狂わされていたことに、その時になってようやく気が付いたんだ。