薔薇の棘で口紅ひいて


 ことの始まりは、イルミの一言からだった。

「ナマエさ、カルトの訓練相手になってくれない?」
「えぇー……」

 滞りなく仕事を終わらせ「報酬はいつもの口座でいいよね」なんて事務的なやりとりをした直後のこと。前触れのない提案に、身構えていなかった私はあからさまに乗り気じゃない反応をしてしまった。

「ナマエならカルトと同じくらいの強さだし。それにうちって操作系と変化系の人間しかいないだろ?だから放出系の人間との相性も見たくてさ」

 戸惑う私に構うことなく淡々と説明される。さらっと十歳の子と同じレベルだと言われたけど、おそらく事実なので何も言い返せない。

「えーと……つまり、私にカルトくんの実戦用ぼこり人形になれと?」
「うん、そう」

 曲解した解釈のつもりだったがあっさりと認められて、顔が引き攣るのがわかった。これは断ったほうがいい。私の直感がそう告げている。しかし、こちらの返答などお見通しだとばかりにイルミは先手を打ってきた。

「ナマエ、しばらく仕事がなくて困ってるって言ってたよね?」

 うっ、と言葉につまる。まさか、さっき何気なく交わした会話が言質を与えることになるなんて。もしかして私が言い逃れできないタイミングを見計らっていたのだろうか。イルミなら十分ありえる。
 さて、困ったことになった。仕事を理由にできないとなると、他に良い口実が思いつかない。やみくもに断り続けるのはよろしくないだろう。イルミの不興を買って今後助っ人として呼ばれなくなったらそれこそ困る。大人しく引き受けるのが得策だと分かってはいるが、それでも首を縦に振りたくない理由があった。

(よりにもよってあのカルトくんだもんなぁ……)
 
 私は、カルトくんに毛嫌いされている。初めて顔を合わせたあの日からずっと。

 ――カルトくんとの出会いは半年ほど前にさかのぼる。とある依頼の折に突如イルミが連れてきたのだ。「今日は弟も一緒だから」というイルミの発言を左から右に素通りさせた私は、ジャポンの民族衣装に身を包んだ少女に目を奪われていた。絹のように艶のある黒髪。髪と同じ色の大きく濡れたような瞳。雪の彫像めいた白い肌。その繊細な美しさにすなおに驚き、感嘆の声を漏らした。

「イルミにこんな可愛い妹いたんだ……」
「弟だけど」
「またまた」

 無表情で冗談を言うイルミを笑い飛ばし、視線を下に移せば、美少女から思いっきし睨みつけられていた。長いまつ毛にびっしりと縁取られた瞳には怒りがありありと浮かんでいる。

「あなたの目、節穴なんじゃない?」

 可愛らしい声には、刺々しさがふんだんに含まれていた。そこでようやく、私は自分の勘違いに気がついた。

「え……本当に弟……?」
「だからそう言ってるだろ」

 狐につままれたような心地で美少女をまじまじと見つめる。
 これが、弟? 男だって?

「いや、どっからどう見ても女の子でしょうが! まぎらわしい!」

 空気が読めないのは私の数多くある欠点のうちの一つだ。今回もそれが遺憾無く発揮されてしまったらしい。切り揃えられた前髪から覗く眉に皺が寄り、目には怒りじゃなくて殺気が宿った。

「そう言うあなたはちっとも女性らしくないよね」

 鼻先で笑われながらそう言われ、カチンとくる。しかし相手はイルミの弟。しかもかなりの年下だ。苛立ちを見せるわけにはいかず、冷静になれ!と自分に言い聞かせながら「あはは、参っちゃうなぁ」と流しておいた。引きつった笑みを浮かべながら。

 しかし、どうやらこの一件で私はカルトくんから完全に嫌われてしまったらしい。その後も何度か顔を合わせることがあったのだけれど、そのたびに憎まれ口を叩かれるようになってしまった。これまでぶつけられた嫌味の数々を思い出し、思わずこめかみを押さえた。

(……ていうか、カルトくんは私と顔を合わせたくないんじゃないの?)

 いつだったか「あなたの顔を見ると虫酸がはしる」と言われたのを思い出し、疑問が湧く。そして同時に閃きが走った。これを理由にすれば角を立てずに断れるんじゃないか?
 私は意気揚々とイルミに向き直った。

「そもそも私が相手じゃカルトくんが嫌がるんじゃない?ほら、この前会った時にも虫酸が走るって言ってたしね!」
「いや、カルトが相手にナマエを指名したんだよ」
「……へ、へぇー、それは光栄だなぁ……」

 救いの道はあっさりと閉ざされ、私は心の中でがっくりうなだれた。
 わざわざ嫌いな私を指名したということは、つまり、これを機に思う存分いたぶってやろうという魂胆だろう。脳裏に意地の悪い笑みを浮かべるカルトくんが浮かんで、すえおそろしくなった。やっぱり何としても断ろう。

「えっと、申し訳ないんだけどその話は――」
「報酬は一千万ジェニーでどう?」
「やります」

 破格の高額報酬に頭の中の天秤が一気に傾いて、反射的に答えていた。背に腹はかえられないのである。



 そこからトントン拍子に話は進み、ゾルディック家を訪ねたのはそれから三日後のことだった。
 厳然と聳え立つ門を見上げて目を細める。ついに、この日がやってきてしまった。

「お待ちしておりました、ナマエ様」 

 試しの門をくぐると、一人の執事が立っていた。ピンと伸びた背筋は執事としての気品を感じさせる。たしか、ゴトーという名の執事だったはずだ。イルミとの仕事の際に何度か顔を合わせたことがある。恭しく頭をさげるゴトーにつられて頭を下げた。

「お荷物をお預かりします」
「ありがとうございます」

 差し出した手荷物を見たゴトーの動きが突然止まった。

「……これだけですか?」
「へ?」

 首を傾げる私に、ゴトーはなんとも言えない微妙な顔をした。しかしすぐさま「いえ、失礼しました」と頭を下げ、ふたたび顔を上げた時には忠実な執事の顔に戻っていた。

「屋敷までご案内します」

 それ以上何も言うことなく、ゴトーは華麗な足取りで進み始めた。その背を慌てて追いかける。

(なんだ? 今の)

 滞在期間は一週間程と聞いていたが、もしやゾルディック家に足を踏み入れるには相当な準備が必要なのだろうか。

(もしかして洗濯機とか使わせてもらえないのかな……やばい、下着足りないかも)

 ゾルディック家はアメニティが充実していると勝手にイメージしていたんだけど、甘かったかもしれない。とりあえず洗濯はさせてもらえるようにイルミに頼んでみよう。
 一抹の不安を抱えつつゴトーの案内に従い敷地内を歩き続け、ようやく邸宅にたどり着いた。物々しい調度品を眺めながら長ったらしい廊下を進み、たどり着いたのは一際大きな扉の前だった。

「カルト様、ナマエ様をお連れしました」
「入って」

 鈴を鳴らしたような声が答える。ゴトーが扉を開き、それに頭を下げつつ部屋の中に入ると、そこはまさしく執務室といったような部屋だった。腹の底にぎゅっと力を込めて、一歩中へ足を踏み入れる。途端に、体を突き抜ける鋭い眼光を感じた。
 窓を背に、ソファに腰かけている少女のような少年。午後の日差しを受けて艶やかに輝く黒髪。そこから覗く双眸は気高い山猫を思わせた。
 カルトくんはおもむろに体を起こすと、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。パタン、と背後で扉が閉まる。振り返るとそこにゴトーの姿はない。二人きりになったことで緊張がいや増した。

「こんにちは、ナマエさん」
「こ、こんにちは」

 カルトくんが纏うオーラに気圧されつつなんとか挨拶すると、クスクス笑われた。

「そんなに緊張しなくても、とって食ったりしないよ」

 これが十歳の子供の台詞だろうか……。
 カルトくんは扇子で口元を隠しながら目を細めた。戸惑う私の様子を見て愉しんでいるようだった。その砕けた雰囲気にいささか拍子抜けする。もっと敵意剥き出しの態度でくるかと思ってたけど、どうやら今日はかなり機嫌が良いみたいだ。

「えっと、確認しておきたいんだけど、私はいったい何をさせられるのかな……?」

 恐る恐る尋ねると、何を今更と言わんばかりにフンと鼻を鳴らされた。

「イルミ兄さんから聞いてないの?ボクの訓練の相手をしてもらうって」
「いや、まぁそれは聞いたけど……その訓練って五体満足で帰してもらえるよね?」
「ボクのことなんだと思ってるの」
 
 カルトくんがムッと眉を寄せる。まずい、怒らせた。これから飛んでくるであろう罵詈雑言に身構えるが、カルトくんの口からは溜息がもれるだけだった。

「仮にもナマエさんは客人だし、兄さんの仕事仲間でもあるんだから、あなたが想像してるようなことはしないよ」
「……本当に? 薬漬けにして監禁とかしない? 拷問の実験台にしたりしないよね?」
「お望みなら今すぐしてあげてもいいけど?」
「謹んでお断りします!」

 慌てふためく私を見て、カルトくんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。やっぱり、今日のカルトくんはいつもと違う。楽しくてたまらないって感じだ。何か良いことでもあったのだろうか。

(この調子で一週間無事に過ごせるといいな……)

 今のところはカルトくんに私を甚振る意図はなさそうだし、このまま機嫌を損ねないようにしなくては。波風立てず!穏便に!友好的に!その第一歩として、私はカルトくんに手を差し出した。

「じゃあ、短い間だけどよろしくねカルトくん」
「……」

 差し出した手を、無言でじっと見つめられる。あれ、握手を求めるのはまずかったか……?
 手を引っ込めようか迷っているうちに、白魚のような手が重ねられた。

「よろしくね、ナマエさん」

 そう言って、カルトくんは笑った。その可愛らしい笑顔がどこか恐ろしく感じるのは気のせいだろうか。なんだか嫌な予感がしないでもないが、持ち前の楽観的思考でそんな予感はすぐに忘れた。



 邸宅の地下にある訓練室。なんの障害もないだだっ広い空間は戦闘前の緊迫した空気に満ちていた。
 呼吸を整え、対峙する相手を見据える。ピンと背筋が伸びた立ち姿は芍薬の花のように美しい。しかし眼差しは猛禽類を思わせる鋭さだった。
 着物の袖がゆらゆらと揺れて、手の先の扇子が空を切る。その動きに気を取られないように目を凝らしていると、パッと扇子が開かれ、周囲に紙吹雪が舞った。

(くる――!)

 不規則にひらひらと舞っていたそれらがピタリと動きを止めて、一斉にこちらめがけて襲いかかる。その一つ一つをオーラを纏わせた拳で叩き落とした。この紙が厄介だ。一つでも刺されば命取りになる。加えて厄介なのは、次の攻撃がどこから来るのかまったく予測できないことだった。
 相手との距離は保ったまま、紙の刃をさばき、ジリジリと間合いをつめていく。徐々に打ち落す感覚が短くなり、余波で足元の紙切れが巻き上がる。そして宙を舞うそれがふたたび意思を持って迫ってきた。

(っと、危な!)

 死角からの攻撃を紙一重で横飛びにかわす。体勢を立て直そうと足に力を入れた途端、かくんと膝がかしいだ。足に相当負担がきている。その僅かなロスを相手が見逃すはずもなく、身構えた時にはすでに後ろに回り込まれていた。

「うわっ!」

 背後からきた横なぎの一閃を、前方に倒れ込んでかわす。そのまま前転して受け身を取り、体勢を立て直した。

(やっば、今のは本気で危なかった!)

 内心冷や汗をかきながら距離をとる。向かい合うカルトくんの表情がすうっと冷たくなった。殺意は感じない。でも、私を一個の敵として確実に追いつめようとしている。
 これが実戦じゃなくて良かったと心の底から思った。

 ――ゾルディック家に滞在し始めて早数日。手合わせを重ねるごとに、ひやりとさせられる回数が増えている気がする。機動力ではまだ私の方が上だけど、正直いつ追い抜かされてもおかしくない。すでに防戦一方だ。もしかしたら、一週間も経たずにお役御免になるかもしれない。

(そしたら報酬減額かなー……)

 嫌だけど、それも仕方ないかなとも思う。だって報酬に見合うような働きしてないし。
 てっきり滅多打ちのボッコボコにされるものだと思っていたけど、カルトくんは約束通りちゃんと加減をしてくれた。おかげで今のところ大きな怪我は負っていない。本当にただの手合わせって感じ。正直めちゃくちゃ緩い。これで1000万も貰ったら罰が当たる気がする。というか後々イルミから何かしらの要求をされそうで怖い。

 思考の隅でそんなことを思いながら飛来してくる紙の刃を散らしていると、けたたましいアラーム音が響き渡った。十分が経過した合図だ。お互いが戦闘に熱中して加減ができなくならないよう間に休憩を挟むことにしている。提案してきたのはカルトくんの方だ。言われた時は信じられなくて三回くらい聞き直した。

「はぁっ、はぁ……」

 その場に片膝をついて荒い息を整えていると、いつのまにかカルトくんがすぐそばに立っていた。すっと手を差し出してくる。

「ナマエさん、怪我はない?」

 ……これだ。手合わせが終わるたびにこうやって聞いてくる。あんなに私を毛嫌いしていたカルトくんが、だ。
 最初のうちは何を企んでいるのかとビクビクしていたが、次第に慣れてきて今では素直に受け止められるようになった。順応性の高さには自信がある。考えるのを放棄したとも言う。

「うん、大丈夫」
「なら良かった」

 私を立ち上がらせ、カルトくんがふわりと笑う。そのあまりの美少女っぷりに思わず見惚れた。

 意外なことに、カルトくんの上機嫌は初日から今に至るまでずっと続いている。前みたいに敵意丸出して睨まれることも、罵られることもない。それどころかしきりに気遣ってくれるし、こうして笑顔も見せてくれるようになった。はじめの印象が悪かった分その効果は絶大で、私の中のカルトくんの評価はうなぎのぼりだった。

(厳しい訓練も文句言わずに取り組んでるし、この子、すごく真面目な良い子なんじゃないか?)

 そう思うと、頑張っている子を褒めてあげたい欲がむくむくと頭をもたげてくる。その欲求のまま軽率に口を開いた。

「カルトくんってばほんとすごいね! 的確に私の弱点を見抜いてくるから毎回ヒヤヒヤするよ〜」
「ナマエさんが隙ありすぎなんだよ。よく今まで生きてこれたね」

 おおぅ……生意気さはやっぱり健在か……。
 まさかのカウンター攻撃を受けて閉口する私の頬に、カルトくんの手が伸びてくる。

「ここ、擦りむいてる」
「へぁ?」

 カルトくんが触れたところに、チリッとした痛みが走った。痛みの度合いから大した傷じゃないだろう。

「これくらいなら全然へい、き……」

 視線を落として、ぎょっとした。なんだか、カルトくんからものすごく熱視線を送られているような……?
 そうしている間も執拗なほどに頬を撫でられ、背筋がぞわぞわと粟立つ。なんだこれ。

「あのー、カルトくん……?」

 得体の知れない感覚に耐えかねて呼びかければ、カルトくんはようやく手を離してくれた。その手を胸にあて、自分の中の何かを確かめるように一呼吸置いたあと、いたずらっぽい目で私を見た。

「あと少しだよ」

 それはまるで自分に言い聞かせるような物言いだった。

(あと少しって、私を追い抜くまでってことだよね……?)

 それにしてはなんだか悩ましいというか、妙に色っぽい言い方なのは気のせいだろうか。雰囲気にあてられそわそわし始める私を見て、カルトくんは笑みを深める。その妖艶な微笑みをやめてほしい。
 どう反応すればいいのか分からずしどろもどろになっていたら、突然カルトくんが背後を振り返った。視線の先には、訓練室の入り口に寄りかかるイルミの姿。

「兄さん!」
「や」

 カルトくんが嬉しそうにイルミの元へと駆け寄る。イルミの登場により妙な空気は霧散し、ほっと胸をなでおろした。

(なんだったんだ今の……)

 心臓が早鐘を打ち、全身に動揺が駆け巡る。無理だ。私のキャパシティじゃ処理しきれない。

(うん、深く考えるのはやめよう!)

 持ち前の切り替えの早さで速やかにさっきの出来事はなかったことにした。触らぬ神に祟りなし。これ大事。

 二人の方を見れば、イルミがカルトくんの頭を撫でているところだった。カルトくんは嬉しそうに頬をほのかに朱に染めている。なんとも微笑ましい光景に目を細めていると、イルミと視線がぶつかった。

「久しぶりナマエ。まだ生きてたんだね」
「ちょっ…、第一声がそれかい!」
「とっくに死んでると思ってたよ」
「縁起でもないこと言わないでくれる!?」

 この男、完全に他人事である。こういう奴だって分かってたけど!自分が依頼した仕事なんだから少しは気にしてくれ!

「もし私の身に何かあったらイルミの枕元に化けて出てやるから……」
「はは、楽しみにしてる」

 悪びれる様子もなく軽やかに笑うイルミを睨みつける。さらに言い募ろうと口を開きかけた時、カルトくんが割って入ってきた。

「兄さん、ボクに用があるんだよね?」

 さっきまでの様子が嘘みたいに不機嫌丸出しの声。以前のような棘のある態度にひやりとしたが、イルミは気にした様子もなく「あ、そうそう」と手を叩いた。

「母さんがカルトを呼んでたよ」
「わかった、すぐ行く。……ナマエさん」
「あ、はい」
「その傷、すぐに手当てしてね」
「へ? いや、別に大した怪我じゃ……」
「いいから」

 ぴしりと叩きつけるように言われ、反射的にコクコクと頷いた。カルトくんは目元の厳しさをほんの少しだけ緩めると、イルミの横を通って訓練室を後にした。

 広い訓練室にイルミと取り残される。カルトくんの言いつけを守るため、同じようにその場を去ろうとしたら、イルミから声をかけられた。
 
「カルトとうまくやってるみたいだね」
「やっぱりそう思う!?」

 そんな気はしてたけど、兄であるイルミから見てもそう見えるなら間違いないだろう。私はテンションが上がって、ぐいぐいとイルミに詰め寄った。

「最初はどうなることかと思ったけどもうすっかり仲良しだよ!」
「ふーん」
「いやーカルトくんのこと勘違いしてたよ。すっごい良い子だね! カルトくんの訓練相手ならずっとやっててもいいかもなー!」

 ベラベラと喋り続ける私を、イルミが無言で見つめてくる。

「お前さ、わかってるの」
「え? 何が?」
「……何もわかってないみたいだね」
「だから何が?」

 呆れたような、とんでもない馬鹿を哀れむような目線を向けられる。しかしすぐにいつもの無表情に戻った。

「んーまぁいいか。カルトに恨まれても嫌だし」
「えっ、そんな思わせぶりな言い方しといてそりゃないでしょ!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てれば、イルミは心底鬱陶しそうにため息を吐く。そして「ひとつ教えてやるけど」と切り出した。

「カルトはオレたち兄弟の中でも一番執着心が強いよ」
「……ん?」

 カルトくんが? 兄弟の中で一番? 実の弟に異常な執着を見せるイルミよりも? うっそだあ。
 腑に落ちていない様子の私をイルミが冷ややかな目で一瞥する。しかし、次の瞬間には全ての関心が抜け落ちたように踵を返した。

「忠告はしてやったよ。じゃあね」
 


 滞在七日目。はっきりと告げられていないがおそらく最終日になるだろうその日は朝から重苦しい雨が降っていた。気圧のせいか頭がズキズキと痛む。どことなく体も重い。こんな調子じゃ今日の手合いは負けそうだ。でも最後だしカルトくんに花を持たせるのがいいのかもしれない。
 そんなことを考えながらだらだら身支度をしていると、ゴトーが部屋を訪ねてきた。

「え、中止ですか?」

 開口一番に告げられた言葉に目をみはる。ゴトーは一旦頷いて、神経質そうな視線を私へ滑らせて理由を明かした。

「カルト様のご体調が優れませんので」
「えっ」

 意外なことを言われて、私はぽかんと口を開ける。

「えっと、それは大丈夫なんですか?」
「一日休めば問題ないとのことです」

 ゴトーはきっぱりと言った。とりあえず大事ではなさそうでほっと胸を撫で下ろす。
 明日には復帰できそうならまだこの家に留まっていた方がいいのだろうか。別に予定もないし一日くらいなら構わない。このままお別れするのもなんだか寂しいし。うん、やっぱり残ろう。
 そんな風に勝手に予定を決めていたら、ゴトーが思いがけないことを言い放った。

「カルト様から言伝がこざいます。本日はくれぐれも部屋からは出ないようにと」
「え、どうして?」

 とっさに口をついて出た疑問だった。「存じ上げません」と起伏のない声が返ってくる。知ったことか、と眉間の皺が物語っていた。

「それでは失礼します」

 異論を唱える閑もなく、ゴトーが部屋を出ていく。

「どういうこと……?」

 広い部屋でポツンとひとり。途方に暮れた呟きは外から聞こえる雨音にかき消された。



 人の家で一人で出来ることなんて限られていて、私はすぐに暇を持て余すことになった。広々としたソファに体を横たえて、ぼんやりと窓の外を眺める。雨はどんどん強まっていて、窓の向こうは嵐とも言えるほどの土砂降りだった。雲が空を覆っているせいで随分と暗い。なんだかこの部屋に閉じ込められているような錯覚に陥った。
 血管が脈打つように痛むこめかみに中指をあてて、ゴトーに言われたことを反芻する。

『くれぐれも部屋からは出ないように』
 
 その言いつけを私は律儀に守っている。従う理由はないけれど、あえて逆らう理由もないからこうして留まっていた。部屋を出たところで行くあてなんて無いし。
 それにしても暇だ。昼寝でもしようかと思ったけど、神経を揺さぶられるような何ともいえない不快な感じがしてうまく寝付けなかった。私ってこんなに気圧の変化に弱かったっけ。
 気怠い心と体を持て余したままどれだけの時間が経っただろうか。ふいに、コンコン、というひかえめなノック音が響いた。なぜかその音に大げさなほど肩を上下させてしまう。なんとなく無視したくなるがそういうわけにもいかず、私は「どうぞ」と扉越しの来訪者に応じた。
 扉が音もなく開かれる。やってきたのはカルトくんだった。

「カルトくん?」

 私は驚いてソファから立ち上がった。

「体調は平気なの?」

 カルトくんがこくりと頷く。そして何やら呟いた。ソファから扉までは少し距離があるためよく聞こえず近づこうとしたが、カルトくんと目が合って私は動きを止めた。
 こちらを見据える瞳に見たことのない光がある。それは獰猛なほど熱く、蠱惑的に潤んでいる。まるで瞳の中で小さな炎がゆらゆらと燃えているみたいだった。
 何だか、見てはいけないものを見てしまっている気がする。とっさに一歩後退するが、離れた距離を埋めるようにカルトくんがゆっくりと近づいてきた。近づくほどにカルトくんの存在感が恐ろしいほどに膨れ上がって、心臓がどくどくとはずんだ。

「まだ休んでいた方がいいんじゃない?」

 平静を装いながら言葉を繋げる。何とかこの妙な空気を払拭したかったけど、カルトくんの放つオーラがそれを許さなかった。

「ナマエさん」

 深い声音で名を呼ばれる。花開いた椿を思わせる微笑を浮かべながら。でも私にはその笑顔がひどくおそろしく映った。

「やっときたんだ」
「な、なにが……?」

 その先を聞くのが恐ろしい。なのに先を促してしまう。
 目の前までやってきたカルトくんは私の腕をとった。手の平と手の平を合わせるようにしてゆっくりと指を開かれる。指の一本ずつまで絡められるように手を握られて、小さな悲鳴が喉の奥で上がった。私の反応を見てカルトくんはクスクスと笑い、そしてとんでもないことを告白した。

「ボク、やっと精通したんだ」
「せっ……!?」

 その一言は、私を混乱の坩堝に叩き落とした。
 思わずカルトくんの体を見てしまう。見た目の可愛いらしさとはかけ離れた生々しい単語に頭がクラクラした。

「ナマエさん、やらしい」

 視線を受けて、カルトくんが悪戯っぽい笑みを浮かべる。羞恥でカッと体が熱くなった。否定したいのに、動転して言葉が出てこない。混乱の極致にある私にカルトくんはさらなる追い討ちをかけた。

「ずっとこの日がくるのを待ってたんだ。房事の訓練は、ナマエさんにしてもらうって決めてたから」

 うっとりとした声の甘さに背筋が凍りつく。
 愚かな私はそこでようやく理解した。自分が呼ばれた本当の理由を。
 初めから違和感はあった。やたらと高額な報酬。少ない荷物に怪訝な顔をするゴトー。イルミからの忠告。気づいて、引き返せれるチャンスは何度もあったはずだ。でも私はそうしなかった。深く考えるのが面倒だったからだ。何か裏があるにせよ命の危機がないのなら大したことはないと高を括っていた。でも、まさかこんなことになるなんて……。

「あああああの、私そろそろ帰ろうかと!」

 パニック状態になりながら声を張り上げる。頭のどこかで無駄な抵抗だと分かっていてもそうせずにはいられなかった。慌てふためく私を見て、カルトくんは獲物をもてあそぶ獣みたいに意地の悪い顔になった。

「帰る?」

 繋がれたままの手をぎゅっと握り込まれ、指先がすぅっと冷えていく。
 気付いたらソファの上に突き飛ばされていた。起き上がろうと体を起こしかけたらまた胸元を押されてのしかかられる。切り揃えられた黒髪が目の前でさらりと揺れる。まるで少女に襲われているような倒錯的な光景に目眩がした。

「ボクの相手をするのがナマエさんの仕事でしょう?」

 夢見心地なとろけた声と吐息が耳に流れ込む。
 逃げようともがくが、思いがけない強い力で抑え込まれて身動きが取れなくなった。自由を奪われた恐怖に体中からじっとりとした汗が噴き出る。
 不意にひんやりとした感触が肌に触れた。何が起きているのかと首を動かし愕然とする。カルトくんの手が直に私の足を撫でているのである。カルトくんの細い指先が肌にひっかかり、ぞわぞわとした感覚を生み出していく。ひどくむず痒く、声を上げてしまいそうな心地よさに私は目を回した。

「ひぃっ!」

 際どいところを撫でられて、哀れな子羊よりももっと悲惨な声を出した。
 
「もっ、もう許して!」
「何を許すの?」
 
 鼻先が触れるほどの距離まで顔を近づけられる。近すぎる距離にだらだらと冷や汗を流した。カルトくんはその汗さえ喜んでいるかのように、首筋に顔を寄せてきた。ヒッ、と悲鳴を上げて固まった私の首に舌が這う。

「助けてぇぇ!」

 もはや命乞いだった。叫ぶ私の頬を両手で包み、カルトくんは視線を合わせてきた。そして、噛んで含めるような口調でゆっくりと諭した。

「もう遅いよ。ボクの秘密、知っちゃったでしょ?」

 にっこり笑ってカルトくんが言う。その言葉は、絶望の底に突き落とすのに十分だった。
 カルトくんが私の身体を抱きしめる。最初は柔らかく、だんだんと力が加わっていく。まるで大蛇に締め上げられているようだと思った。

(あぁ、もう私は逃げられないんだ……)

 本能的にそう悟って、諦めが身体の動きを縛る。カルトくんは耳の後ろに唇を落として、とろけるような甘い声で囁いた。

「女扱いなんて二度とさせないように、ちゃんと体に教えて込んであげるね」


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