あやまちが迎えにくるまで
昔からだった。あの隙のない男が、俺に対してだけ頭のネジがゆるゆるになってしまうのは。かつての仲間たちは「クロロが甘えるのはナマエだけだ」とよくからかってきたが、それが俺には好ましくなかった。まるで俺がクロロのために存在していると言われているみたいで……。冗談じゃない。あいつの付随物になるのは御免だ。俺は、クロロから離れるため流星街を出た。
そうはいっても完全に縁が切れたわけじゃない。俺としてはそうしたかったけど、どこへ逃げても居場所を突き止められてしまうからその辺りはもう諦めている。ならばせめて関わらないようにと、クロロからの連絡は徹底的に無視した。それもあまり意味はなかったが、とにかくクロロからの干渉を跳ね除け続けた。よっぽどのことがない限り、あいつを受け入れない。そう心に誓ったんだ。
目が覚めた瞬間、最悪な朝を確信した。背中に感じる他人の体温に気が滅入っていく。あれだけソファに戻れって言ったのに。
「はぁ……」
舌打ちしたい気持ちを堪えて溜息にとどめる。気怠く薄目を開けて時計を見れば、そろそろ起きなくてはならない時間だった。起き上がってのびをすると、部屋中に服が散乱していることに気が付いた。
「さっむ……」
むき出しの肌に刺さる冷気にぶるっと身をふるわせる。くそ、風邪でも引いたらどうしてくれるんだ。恨めしい気持ちで眠り続けるクロロを見下ろした。隙のない整った顔立ちが、今はあどけない子供のような雰囲気をかもしだしている。その寝顔を見ていたら腹立たしさと共になんとも言えない錯雑とした気持ちがこみ上げてきて、俺は思考を打ち消した。
――クロロが俺の家を訪ねてきたのは半月ほど前のことだ。
「お前に家を教えた覚えはないんだよ。勝手に訪ねてくるな」
玄関ドアを開けて、立っていた相手と顔を突き合わせた瞬間にそう言い放つ。こうやってアポなしで来られるのは一度や二度じゃない。その度に苦言を呈すがクロロはいつも何処吹く風だった。しかし、今回ばかりは違っていた。眼差しは翳り、いつもはよく回る口が固く閉ざされている。見るからに沈んだ様子に、思わず何があったと尋ねていた。
「団員と接触できなくなった。ついでに念も使えない」
予想していなかった答えに俺が反応に困っていると、クロロは強ばった空気を崩すように力なく笑った。
「少しの間でいい。匿ってくれないか?」
よっぽどのことが起きたのだと察し、俺は頷いた。
クロロはかつてないほど弱っていた。何があったのか気にならないわけではなかったが、詮索することはしなかった。なんとなくクロロも触れて欲しくなさそうに見えたし、こいつが背負うものに巻き込まれるのも嫌だったからだ。それが功を奏したのかは知らないが、クロロは徐々にいつもの調子を取り戻していった。元気になったならさっさと出ていってほしいものだが、そうせっつくたびに「そのうちな」とのらりくらりとかわされ、結局今に至っている。
俺はベッドから抜け出し、あちこちに散らばった服を拾い上げて脱衣所へと向かった。集めた衣服をランドリーボックスへと放り込む。洗濯は絶対にあいつにやらせる。そのまま顔を洗おうと洗面台に立って、首のところに痕があることに気がついた。
「痕つけんなっつったのに……」
苛立ちをかき消すため、蛇口を全開でひねりバシャバシャと顔を洗った。
居間に入ると、俺はまずコーヒーを淹れ始めた。ここのところ毎朝淹れている。以前はいちいちそんな面倒なことはしていられないと思っていたが、クロロが馬鹿の一つ覚えに強請ってくるからすっかり習慣化してしまった。大の男を甘やかしている自覚はあるが、深く考えないようにしている。この奇妙な同居生活を上手くこなすコツはあらゆるものを諦めることだ。
並べられた二つのマグカップからコーヒーの香りが立ち上る。ミルクを取ろうと冷蔵庫を開けたところで、背後から抱きしめられた。
「おはよう、ナマエ」
耳元で甘く囁かれて、ぞぞぞと肌が粟立つ。気配を消して近寄るなっていうのも口が酸っぱくなるほど言ったことだ。反射的に舌打ちをもらすと、あろうことか首筋に顔をうずめてきた。
「……おい、やめろ」
「ん?」
こちらの抗議はさらりと流され、それどころか頬をすり寄せられる。うげ、と声を出しながら身を捩って避けようとするが、羽交い締めにされているせいでそれもかなわない。
「お前それやめろ」
「それって?」
「その気色悪い真似をやめろって言ってるんだよ」
「今更じゃないか?」
「うっせ、離れろ」
喉奥で唸りながらそう言えば、ようやくクロロは体を離した。しかしその場から離れる気配はない。
「ナマエ」
呼ばれて嫌々振り返れば、ゆるく笑ったクロロがおいでと言わんばかりに両手を広げていた。ふざけるなと一蹴してやりたくなるが、不意に目に入った皺だらけのシャツにぎくりとして動きを止めてしまう。臆した様子を見せると、真正面から容赦なく抱きしめられた。
「ナマエ」
存在を確かめるように名を呼ばれる。俺は昔からこいつに名前を呼ばれるのが苦手だった。呼ぶだけ呼んで、それ以上は何も言ってこないから。クロロがいったい何を求めているのか、俺にはずっと分からないままだ。
しばらく好きなようにさせていたが、コーヒーの存在を思い出してクロロを引き剥がした。名残惜しそうな眼差しを無視して定位置に座らせる。クロロはブラックのまま、自分の分にはたっぷりミルクを注いだコーヒーを手に持ち、向かいの席に腰を下ろした。
差し出されたコーヒーを黙って飲み始めたクロロを一瞥し、いつもの問いを投げかけた。
「お前、いつ出ていくんだよ」
「まだ先だな」
「……あっそ」
顔も見ずにそっけなく答える。見られているのがわかったが、視線を合わせないままカップの中身を飲み干して立ち上がった。身支度を整え、玄関に向かおうとする俺の背中にクロロの声がかかる。
「もう行くのか」
「いつもこの時間だろ。いい加減覚えろよ」
「何時に帰ってくるんだ?」
「はあ? 何時でもいいだろ」
「早く帰ってきてくれ。ナマエがいないと寂しいんだ」
腹の底から不愉快なものがふつふつと湧き上がる。子供のような物言いをするクロロをひどく疎ましく思った。どうせもうすぐ居なくなるくせに。本当に身勝手な奴だ。
「帰ってきたら家が広くなってることを願うよ」
当て擦りを言い放ち、クロロの返事を待たずして家を出た。
不意に、さっきみたクシャクシャのシャツが脳裏に浮かんだ。ひときわ強く皺が残る裾は、まるで誰かに強く握り締められたみたいで……。
苦々しいものがこみ上げて、俺は考えることを放棄した。