つたないこころの裏側で


「オレ、この家継ぐ気ねーから」

 放たれた言葉はまるで銃弾のように胸の奥深くに突き刺さった。キルアが息を吸う。あとに続く言葉の威力を私は知っている。耳を塞いでしまいたいのに、腕はぴくりとも動かなかった。

「ナマエも親同士の決まりごとに縛られてないで、好きに生きろよ」
 
 ガラガラと足元が崩れ、もがいても這い上がることのできない谷に落ちた気がした。呆然と立ち尽くす私を一瞥してキルアは表情をゆがめるが、それ以上は何も言わずに去っていく。明るい光の方へと進んでいくのをまばたきもせず見つめた。その背中が光の中へと消えた時、私は息苦しいほどに胸がしめつけられるのを感じた。
 失ってはじめて、心に根付く感情に気が付いたんだ。



 目が覚めると、そこは自室のベッドの上だった。ああ、またか。仄かに残る悲しみの余韻に浸りながら、ぼうっと天井を見つめる。もう何度同じ夢を見たことだろう。何年も前の出来事なのに、鮮明に思い出してしまう己の未練がましさにうんざりする。虚脱感に包まれた体を無理やり起こし、布団を見下ろして溜息をついた。

 私は暗殺を生業とする一家の長女として生まれた。それなりに歴史のある一族で、かのゾルディック家とも交流が深い。その証拠として、後継者であるキルアとの婚姻が取り決められていた。私は、物心つく前からキルアの婚約者として育てられてきたのだ。
 はじめてキルアと会った日のことは今でもはっきりと覚えている。キルアの銀色のふわふわした髪が、幼い私の目にはまるでわたあめみたい映って「おいしそう」と手を伸ばしたのだ。キルアは「食べ物じゃない」と唇を尖らせながらも好きなようにさせてくれていた。将来、私の夫になる人。その時にそう意識したかは定かじゃないが、いつのまにか婚約者という立ち位置が私の中で当たり前のものになっていた。――キルアが、家族を刺して家を出ていったという知らせを受けるまでは。
 ただの反抗期だ、気が済めば戻ってくるだろう。ゾルディックの人たちの見解は概ねそんな感じだったらしい。事実、キルアは帰ってきた。正確には彼の兄に連れ戻されたわけなのだけれど。帰還の知らせを聞いても、私は言いようのない胸騒ぎを覚えていた。キルアがこのままどこか遠くに行ってしまう気がして、急いでパドキアへと向かった。――悪い予感は的中した。私が到着した時、キルアはふたたび家を出ようとしていたのだ。そして、引き止める私に向かって「好きに生きろ」と言い放ったのだ。それは、婚約解消を言い渡されたも同然だった。

(当時はキルアを恨んだっけ……)

 キルアから突き放され、私はそれはもう怒り狂った。当時の暴れっぷりは未だに家族から揶揄されるくらいだから相当だったと思う。しかし次第に幼い癇癪はおさまり、冷静な頭を取り戻すと自らを省みるようになった。私は、キルアが家を出るほど追いつめられていたなんて知らなかった。自分の立場に胡座をかいてキルアの気持ちなんてちっとも分かろうとしていなかったのだ。きっと私との婚約もキルアにとっては不本意なものだったのだろう。そんなことにも気づけなかったくせに、何が婚約者だ。私に名乗る資格はない。そんな風に考えるようになっていた。
 仕方がないと納得できても悲しいと思う気持ちはなかなか拭えるものではなくて。それでもいつか時間が忘れさせてくれると信じていた。だけど、実際のところは今でも夢に見るくらい引きずってしまっている。いくらなんでもしつこいと思う。でも、そうなってしまうのも仕方がない……とも思う。

 ベッドの上にいると心が暗く沈んていきそうで、のろのろと立ち上がる。そのままサイドテーブルに置いていた携帯に手を伸ばし起動ボタンを押すと、新着メールの通知が表示された。途端に、心臓が高鳴った。
『今ジャポンにいる』
 そっけない一文とともに写真が添付されていた。満面の笑みを向けるアルカちゃんと、その横で照れくさそうにピースするキルア。なんとも微笑ましい写真を見て、思わず口元が綻んだ。

「キルア、寝癖ついてるよ、と」

 送信ボタンを押して、ふう、と一息ついた。

 ――あれから数年経った今、意外なことにキルアとの交流は続いていた。メールのやり取りがほとんどだけどたまに電話もかかってきたりする。その時にする会話といえば主に近況報告だ。電話口で聞くキルアの話は心臓に悪いものばかりだった。それでも最近はアルカちゃんといるからそんなに危ないことはしてないみたいだけど。
 対する私は、ゾルディック家の人たちの近況を伝えていた。きっとなんだかんだ気にしてるだろうと思ったから。キルアは認めないだろうけど。お互い話すことがなくなると「ナマエはどうなんだよ」って投げやりに聞かれるけど、キルアと違って報告できることなんてなくていつも困ってしまう。

「キルアはすごいなぁ……」
 
 どんどん前に進む彼とは対照的に、私の時間は止まってしまっている。私だけが、あの日に置き去りにされたままだ。
 ふいに手に持っていた携帯が震える。画面には「うっせー」とだけ表示されていた。そんな一言でこんなにも浮かれてしまう自分が情けなくて、悲しかった。



 ある日、退屈な日常に一つの波乱が舞い込んだ。
 あのキキョウさんが我が家を訪ねてくるというのだ。知らせを受けたのはなんと当日の朝。あまりにも突然な来訪に家中が一気に慌ただしくなった。

(いったい何事だろう……)

 キキョウさんとは何かと顔を合わせる機会があるが、今日みたいにいきなり訪ねてくるなんてことは私が知る限り一度もなかったはず。そのイレギュラー事態に、私は言いようのない胸騒ぎを覚えていた。

 キキョウさんが到着したのは昼過ぎだった。数人の執事を引き連れてやってきた彼女は、私の姿を見つけた途端に甲高い声を響かせた。

「まあっ! ナマエさん、御機嫌よう!」
「こんにちは、キキョウさん」

 煌びやかなドレスの裾をひるがえして近づいてくるキキョウさんにむかって頭をさげる。相変わらずのハイテンションにやや圧倒されていると、勢いよく腕を掴まれた。

「今日はナマエさんにお話があるのよ!」
「……へ?」
「まずはお茶に致しましょう! テラスはどちらかしら?」
 
 戸惑う私に構うことなく、ずるずると引きずられる。あ、これはまずい。いやな予感が現実になる気配を察したがキキョウさんの手から逃れられる筈もなく。抵抗を諦めた私はおとなしく屋敷の南側にあるテラスまで連行された。


「そうそう、まずはご報告があるの!」

 中庭のテラス席に座り、執事が用意した紅茶を優美な所作で一口飲んだあと、キキョウさんは切り出した。

「家はイルミに継いでもらうことになりました」

 きっぱりとした口調で言い放たれ、息をのむ。突きつけられた事実に驚く反面、納得する気持ちもあった。いつまでも後継者の席を空けたままにはしておけないのだろう。ゾルディックほど権威のある一族ならば尚更。キルアが家を出て数年経った今、そろそろそんな話が出てもおかしくないと思っていた。
 だけど、誰よりもキルアが継ぐことを望んでいたのは他でもない彼女だ。並々ならぬ葛藤の末の決断であったことは間違いない。しかしキキョウさんはそんな様子をにも出さず艶然と微笑んだ。

「まあ、それはまだ先の話ですけど……うふふ、私とっても良いことを思いついたの!」
「はぁ」

 キキョウさんのスコープがギュルリと音を立て、こちらに照準を定めたのがわかった。

「ナマエさん。貴女、イルミと結婚してくださらない?」
「へっ?」

 とっさに言われたことを理解できなくて間抜けな声をあげる。固まる私に向かって、キキョウさんは一気呵成にまくしたてた。

「キルが家を継がなくてとっても残念だけど、婚約の話まで白紙にする必要はないわ。そうは思わない?」
「えっと……」
「私、可愛い娘ができるのが夢だったのよ! パパもイルミもナマエさんなら大歓迎だわ!」
「え、イルミさんが……?」

 あの人がそう易々と認めるだろうか。どうにもキキョウさんが先走って行動しているように思えてならない。うろんな視線を向けるが、まるっと無視された。

「貴女が良ければ縁談を進めたいのだけれど、どうかしら?」
「どう、と言われましても……私の一存で決められることではないですから」

 婚姻は家同士の関係を決定づける大きな話だ。ここで安易に返答するのは控えたほうがいいだろう。しかし、キキョウさんは引き下がらなかった。

「まずは貴女の気持ちを聞きたいの!こういうことって本人の意思が大切でしょう?」

 意外な言葉に目を丸くする。そういえばキキョウさんとシルバさんは恋愛結婚だったと、幼い頃に母から聞かされたことを思い出した。

(私の気持ち、か……)

 正直なところ気が進まない。イルミさんと結婚なんて考えたことないし、そもそもろくに会話すら交わしたことがないのだからひどく現実味の薄い話だった。
 そして何より、キルアの婚約者という肩書きが失われるのが嫌だった。もはやあってないようなものだけど、それでもはっきりと白紙にされたわけじゃない。婚約者という関係が私とキルアをかろうじて繋ぎ止めていたものだった。そのか細い糸が今度こそ絶たれてしまうと思うと、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感が胸を迫った。だけど同時に、そんな自分が情けなくなる。いったいいつまでこんな不毛な想いを抱えるつもりだ。私もそろそろ、前に進まなくちゃ。
 意を決して、正面に座るキキョウさんを見据える。そして口を開いた。

「私は――」



 慌ただしい一日が終わり、気づけば深夜になっていた。家族への報告を済ませて自室に戻った私は一人ベッドの上で横たわっていた。

「疲れた……」

 はぁ、と重い溜息を吐き出す。このまま寝てしまおうと目を閉じてみたけど、まぶたの裏に浮かぶ銀髪が眠気を追いやってしまう。しばらく葛藤した末、携帯を手にとった。
 もう夜中だ。かけたところできっと出ない。そう自分に言い聞かせながら発信ボタンを押す。しかし予想に反してコール音はすぐに途切れた。

「……ナマエ?」

 鼓膜に滑り込んできたキルアの声に思わず体が強張る。動揺がにじむ声で「夜遅くにごめん」と口早に返した。

「ナマエからかけてくるとかめずらしーじゃん」

 少しだけひそめられた声。やっぱりこんな夜中に、迷惑だっただろうか。

「いま大丈夫? 都合悪かったら後日でも……」
「別に構わねーけど」
「アルカちゃん起こしちゃわない?」
「いや、オレしかいねーし。……つーかお前、オレらが同じ部屋で寝てると思ってんのかよ」
「え、違うの?」
「ちげーよ! 流石にもう分けてるっつの! ……まあ、たまにアルカが乱入してきたりもするけど」

 照れくさそうなキルアの顔と無邪気なアルカちゃんの笑顔が頭に浮かんで、口元が緩んだ。
 しばらく他愛のない話を続けていたが、ふと会話が途切れた瞬間に「で?なんか話があるんだろ」と投げかけられる。一拍の間を置いてから、本題に入った。

「今日ね、キキョウさんがうちに来たんだ」
「おふくろが?なんで」

 電話越しのキルアの声が固くなる。一瞬、私の口から伝えていいものかと逡巡したが、それこそ今さらだと打ち消した。

「イルミさんが家を継ぐんだって。その報告をするためにうちに来たの」
「ふーん」
「ふーんって……それだけ?」
「だって興味ねーもん。ま、親父もやっと諦めてくれて清々したかな」

 あっさりとした反応に拍子抜けする。キルアにとって、家のことはとっくに過去の話なんだ。そう思ったら、耳の奥に滲むような痛みが走った。

「それ言うために電話してきたのか?」
「ええっと……」
「なんだよ」

 つい言い淀む私をキルアが促す。緊張をはらんだ呼吸を二、三度くりかえしてからようやく言葉を継いだ。

「実は、キキョウさんから、イルミさんと結婚しないかって言われて……」
「は?」

 電話口から聞こえた空気を裂く音に、びくりと身が竦む。

「結婚って、誰が。誰と。」
「わ、私が、イルミさんと……」
「なんだよそれ」

 地を這うような低い声に、一気に血の気が引いていく。
 どうしよう、キルアを怒らせてしまった。その恐怖で頭がいっぱいになって、怒りの理由を考えるまでに至らなかった。とにかく謝らないと。その一心で口にした謝罪はどうやら火に油だったらしい。

「お前、あの家に嫁げればなんでもいいのかよ。節操ねーんだな」

 どん!と心臓を殴られたような痛みが走った。
 言われた言葉がぐるぐると頭の中でうずを巻いていく。やがてそれは加速し、激しい憤りをこみ上げさせた。

「信じらんない……」

 鼻の奥がツンと痛むのをこらえながら声を絞る。節操がないなんて、あまりにも酷い言い様だ。許せない。どんどん頭に血が上っていって、ついには爆発した。

「節操がないなんてよくも言ってくれたよね。言っとくけど、私はとっくの昔に振られた相手に操を立ててるような死ぬほど重い女だから!」
「え。ちょ、ナマエ」
「キルアの馬鹿!」

 戸惑うキルアを遮って声を張り上げる。怒りに任せてとんでもないことを口走っている気がするけど、もう止まらなかった。

「そもそも誰のせいでこんな未練がましい女になってると思ってるの!? キルアが気まぐれに電話なんかかけてくるから、だからっ、いつまでたっても私は……っ!」

 耳元でキルアが何か言ってる気がしたけど、怒り狂った私には届かなかった。

「もう連絡してこないで!」

 半ば叫ぶように言い捨てて、一方的に通話を切る。そのまま電源を落として放り投げた。

 気づけば、ボロボロと涙がこぼれていた。とめどなく流れる涙を拭う気力もなくて、シーツに音もなく吸い込まれていく。
 粉々に打ち砕かれた心はもはや機能しておらず、何も感じない。ただ、このまま眠ってしまいたいと思った。もう目が覚めないほど、深く深く。



 目覚めは最悪だった。ひどく頭が重く、瞼がこれ以上なく腫れているのがわかる。きっとひどい顔になっていることだろう。とてもじゃないが鏡を見る気になれなかった。

「はぁ…………」

 辛気臭いため息を吐き出す。考えることを放棄して眠りに逃げた代償だろうか。目覚めた瞬間から悲しみで胸が潰れてしまいそうだった。

『お前、あの家に嫁げればなんでもいいのかよ。節操ねーんだな』

 電話越しのキルアの冷たい声が、今も耳にこびりついている。思い出すだけで涙がこみ上げ、後悔が胸を咬んだ。

(なんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう)

 否定するだけに留めればよかったのに、怒りに任せてとんでもないことを口走ってしまった。そのおかげでキルアに知られてしまった。あの日に潰えた恋慕を、未だに断ち切れていないことを。

(絶対、引かれた。それどころか、軽蔑されたかも……)

 きっと、もうキルアから連絡がくることはないだろう。私は、かろうじて残っていた彼との繋がりを自らの手で断ち切ってしまった。

「……っう……」

 やりきれない気持ちがこみ上げ、奥歯を噛みしめる。それでも押し寄せる感情の激流にあらがえず、涙がぽろぽろと溢れた。長い年月をかけて少しずつ修復していた心は、ふたたび粉々に砕け散ってしまった。また立ち直るためには、一体どれほどの時間を要するのだろう。
 少なくとも今日は無理だ。一切何もする気が起きない。今日は誰にも会わず自室に籠城すると決めた。そのための人払いはもう済んでいる。

 しかし無情にも、コンコン、という控えめなノック音が部屋に響いた。

「ナマエ様、お休みのところ申し訳ございません」

 ドア越しに執事の声が聞こえてきて、思わず顔を顰めた。勘弁してくれ。今日はひとりにしてほしいって執事長に伝えたのに。お願いだから放っておいて!
 ささくれ立った気持ちでしばらく無視を決め込むが、執事は一向にその場から立ち去る気配はない。しびれを切らして、シーツから顔を出した。

「今日は誰とも会うつもりは――」
「キルア様がいらっしゃってます」
「………へっ?」

 耳を疑った。脳が理解する前に体が反応して、ベッドから飛び起きた。

「えっ、なっ……どっ、どこに!?」

 動揺のあまり間抜けな質問をしてしまう。対する執事の対応は冷静だった。

「当屋敷でございます。キルア様はナマエ様にお会いしたいとおっしゃっております」

 ガツンと側頭部を殴られたような衝撃。次いで、さー、と音を立てて血の気が引いていった。

(どうしてうちにキルアが? 私に会いたいって……昨日の今日でどんな顔して会えばいいのよ!)

 気が動転し、混乱の極みにある頭が導き出したものは『居留守を使え!そして逃げろ!』という愚直な指令だった。

「いないって言って!」
「え?ですが……」

 ドア越しの執事の声に困惑が滲む。困らせてしまうことは分かってたけど、今は気遣える余裕はなかった。

「今からいなくなるから! とにかく、キルアには私はいないって伝えて!」

 声を張り上げ、ベッドから飛び降りる。勢い余ってつんのめりそうになるのを堪えて、クローゼットまで駆け寄った。

「ああ、もうっ!」

 苛立ちながら胸元の釦を引きちぎるようにはずし、寝間着を乱暴に脱ぎ捨てる。そしてクローゼットの中から適当なワンピースを掴んで頭からかぶった。数秒で着替えを済ませ、くるりと踵をかえすと、足早に窓に近づいた。
 二階にある自室には小さなバルコニーが裏庭に向かって張り出している。このバルコニーから、裏庭の木に飛び移って下に降りよう。それがこの数秒で思いついた脱出計画だった。なんともお粗末な計画だが、追いつめられた状況では他に良い案が思いつかなかった。
 勢いよく窓を開け、バルコニーに出る。飛び移れそうな木を確認して、手すりに足をかけた瞬間だった。

「う、わ」

 ぐらりと脳が揺さぶられる感覚に襲われる。ろくに寝てない状態で急に動いたせいで眩暈を起こしたのだろう。体のバランスが崩れ、手摺から足がずり落ちた。「あっ」と思って手摺を掴もうと手を伸ばすが、指先も掠らない。私の体は空中に放り出された。

(落ちる――!)

 衝撃を覚悟してぎゅっと目を瞑った瞬間。地面に叩きつけられるのではなく、誰かに抱きとめられる感触に包まれた。

「……あっぶねー」

 すぐ真上から聞こえた馴染みのある声に、恐る恐る目を開く。そして、固まった。

「キ、ルア……」

 バルコニーから落ちた私を抱きとめてくれたのは、最も会いたくない人物だった。
 唖然として面食らう私を、キルアがほっとした表情で見下ろしている。しかし、その顔はみるみるうちに剣呑さを帯びていった。

「おっまえなぁ! 何やってんだよ!」
「ご、ごめん。でもどうして裏庭に……?」
「ナマエのことだからどうせ逃げ出すだろーと思って先回りしてた」

 ふふん、と鼻で笑われ、私は絶句した。
 恥ずかしい。子供じみた行動を見透かされていたことも、失敗して助けられていることも、横抱きにされている状況も、何もかも。

「お、おろして!」

 羞恥に耐えきれず、キルアの腕の中でじたばた暴れる。しかし余計に力を込めて抱えられてしまい、もはやパニックだった。全身が心臓になったかのように脈打っている。

「ヤダね。ナマエ逃げるだろ」
「逃げない! 逃げないからっ!」
「言ったな?」

 首をブンブンと上下に振る。私の死にそうな顔を見て、キルアはようやく地面に降ろしてくれた。どうにかまっすぐ立ったが、力を抜いたらすぐに崩れ落ちてしまいそうだった。

(もうやだ。恥ずかしい。消えたい)

 さまざまな感情が綯い交ぜになって、体が逃げを打ちそうになる。しかし射抜くような眼光を真正面から受け、逃亡は不可能だと悟った。

「お前さ」

 あわや震えだしそうな私を黙って見つめていたキルアが口を開く。細い糸の上を綱渡りしているような、どこか張り詰めた空気を感じさせた。

「本当にすんのかよ」
「……へ? 何を?」

 キルアは言いにくそうに視線をうろうろさせたあと、やがて意を決したようにこちらを見据えた。

「本当にイルミと結婚すんのかよ」

 キルアの顔が悲痛に歪められる。その表情があまりにも辛そうに見えて、私はとっさに声を張り上げていた。

「しないよ! その話は正式に断ったから」
「……マジ?」
「うん」

 力強く頷くと、キルアは盛大に息を吐きながらうなだれた。その姿が深く安堵しているように見えるのは、私の気のせいだろうか。
 しかし、次の瞬間には怒声が飛んできた。

「っんだよ、お前! それを先に言えよ! 死ぬほど焦ったじゃねーか!」
「ちゃんと言おうとしたよ! でもキルアが怒って言わせてくれなかったんでしょ!」
「うっ……それは、悪かった」

 頭を下げられ、ぐっと言葉につまる。

「ひどいこと言って、ごめん」

 真摯に謝る姿を見て、私はようやく理解した。キルアがこんなところまでやってきた理由を。きっと昨日の電話で私を傷つけたと思って飛んできてくれたのだろう。その優しさは、今の私にはひどく残酷なものだった。それでも、こうしてまた会いにきてくれたことを嬉しくも思ってしまう。どうにもならない自分の心を嘲るように、私は低く笑った。

「別にいいよ。あとキキョウさんに私とキルアの婚約も正式に取り消してもらうようお願いしておいたから」

 キルアから何か言われる前に、早口でまくし立てる。とっさに足元に目を落としていた。キルアがどんな顔をしているのかこわくて見れない。もし、ほんの少しでも安堵の色が見えてしまったら、みっともなく泣き出してしまうかもしれない。
 俯いたまま沈黙に耐えていると、あからさまに不機嫌な声が耳朶を打った。

「どういうことだよ」

 昨日の電話での様子を思い出し、反射的に顔を上げる。また怒らせてしまったかと肝を冷やしたが、群青色の瞳には怒りよりも焦燥が色濃く窺えた。

「なんでそんなことしたんだよ」
「なんでって……キルアから言い出してきたことでしょ」
「んなこと言ってねーよ」
「はあ?」

 今度は私が声を荒げる番だった。意味がわからない。もしかして、キルアは忘れてしまったのだろうか。キルアにとっては覚えておく価値のないような出来事なのかもしれない。そう思ったら、いよいよ本気で悲しくなってきた。

「私に好きに生きろって言ったじゃない。親同士の決まりごとに縛られてないでって……忘れたの?」

 言葉とともに、あやうく涙がこぼれそうになるのを何とか耐える。
 キルアは驚いたように息をのんだ。瞳を大きく見開いて、呆然とこちらを見つめている。やがてはっと我に返ると、目に見えて狼狽えはじめた。

「ちがっ、あれはそういう意味じゃ…っ!」

 キルアはそこで言葉を止めると、ぐっと歯を食いしばった。握り拳を作って何かに耐え、真剣な面持ちで私を見つめる。

「……悪ィ、俺の言葉が足りてなかった」

 ためらうように、自分の中の言葉を丁寧にたぐり寄せるようにしてキルアは続けた。

「あの時、俺がナマエに好きに生きろって言ったのは……その、親同士が決めた婚約とか関係なく、ナマエに俺自身を見て欲しかったからなんだ」

 今度こそ間違えないようにと慎重に連ねられた言葉に、私は息が止まりそうなほど驚かされた。

「…………へ?」

 瞬きも忘れてキルアを凝視する。じっと見つめてくる瞳はいつのまにか静けさを取り戻していた。だけどその奥には確かな熱が宿っていた。

(俺自身を見て欲しかったって……それって、それって……)

 心の中で反芻し、なんとか理解した途端、とんでもない速さで動揺が身体中を駆け巡った。心臓が早鐘を打ち、顔に熱が集まっていく。先ほどからあまりにも予想外のことばかり起きていて、冷静でいられない。

「うそ……」
「嘘じゃねーって」

 心が乱れている私にしっかりと分からせるためか、キルアは間髪入れずに答えた。
 分かっている。彼が嘘をついていないことくらい。でも、理解はできても受け入れられるかどうかまた別の話だ。こっちがどれだけ拗らせてきたと思っているんだ。そう簡単に納得できるはずはない。

「だって、今までそんな素振り、全然……」
「ナマエだって見せてなかっただろ。昨日までは」

 拗ねたようにそう言われて、カッと全身が熱くなった。
 キルアは顔を背けて、ガシガシと頭をかいた。その耳が赤く染まっているのを私は信じられない気持ちで見ていた。

「……ずっと、ナマエに辛い思いさせてたんだよな」

 ふいに、キルアがぽつりとこぼす。その顔は痛ましげにゆがめられていた。

「ごめん。もうそんな思いさせねーから」

 後悔のにじむ声だった。途端に涙腺が緩む。喉が詰まって言葉が出なくて、ふるふると首を横に振るのが精一杯だった。
 キルアの手が、壊れ物に触れるかのように頬を拭った。心のもっと奥の部分がずくりと疼く。言いようのない喜びが波立つように押し寄せて、また涙が溢れた。

「とにかく俺は、昔も今も……ナマエのことが……す、きだってことだよ!」

 滲んだ視界に、頬を真っ赤にしたキルアが映っていた。くそ、カッコつかねー!とキルアが乱暴に頭を掻いている。私も同じくらい耳の先まで真っ赤になっていることだろう。
 まるで、都合の良い夢を見てるみたいだ。歓喜が体からこみ上げ、涙がぽろぽろ溢れる。でも、泣いてるだけじゃダメだ。私もちゃんと言葉にしないと。

「わっ、わたしも……ずっと……」

 勇気を総動員するが、その先はなかなか言葉が出てこなかった。心臓の音が太鼓を叩くみたいにさわがしい。このままじゃ倒れるんじゃないかってくらいドキドキしている。

「ずっと? なんだよ」

 いくぶん冷静さを取り戻したキルアが、涙を親指の腹でぬぐってくれながら、いたずらっぽく瞳をひらめかせた。真っ赤になって言いよどむ私の姿を、にやにやと意地悪そうに眺めている。うう、と悔しくて歯ぎしりした。

「分かってるくせに……」
「うん。知ってる。すっげー嬉しかった」
 
 そう言って、キルアは笑った。うれしくてたまらなくて、どうしたらいいか分からないっていう表情。見ているこちらが気恥ずかしくなるくらい無防備な笑顔に、私はふたたび何も言えなくなった。

「ナマエ」

 キルアがそっと手を握る。伝わる熱が心に突き刺さった氷を溶かして、暖かくほどけていく。

 彼がここにいること。私がここにいること。とうに切れたと思っていた糸がまだ繋がっていたこと。そのすべてが夢のようで、でも夢じゃない。まだつたない私たちの繋がりを、今度こそ大切に繋げていけたらと心から思った。


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