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彼女の痛点


 暗闇が支配する夜だった。月は分厚い雲に隠され、路地裏を照らすのは心許ない街灯のみ。暗く沈んだその場所には、向かい合う二つの人影があった。

「つれないねぇ、キミは」

 ヒソカは穏やかな口調で言った。しかしその声音とは裏腹に、瞳の奥には殺意が宿っている。逞しい肉体から発散される禍々しいオーラは対峙する人物に向けられていた。
 対峙する女――ナマエは満身創痍だった。左腕は折れたのか、だらりと力なく垂れ下がっている。着衣もボロボロになり、顔や手からは血が流れ出していた。
 その上、ナマエは袋小路に追い詰められていた。周囲を囲む壁は高く、登って逃げることもできそうにない。
 しかしそんな絶体絶命の状況にも関わらず、ナマエの顔に焦りの色はなかった。恐怖も、絶望も、怒りさえも感じられない。まるで能面のように無表情な顔をして佇んでいるだけだった。

「さっきからずっと逃げ回ってばかりじゃないか。そろそろボクと遊んでよ」

 ヒソカはゆっくりとナマエに向かって歩み寄った。常人ならば思わず後退るであろう殺気を受けながらも、ナマエは臆することなくヒソカを見据えている。
 その冷静さがヒソカは気に食わなかった。彼の苛立ちは次第に募っていく。

(ああ……本当に気に入らないなぁ……)

 ヒソカの望みは強者との戦闘だ。自分の命を賭けた戦い。それこそが彼にとって至上の喜びであり生き甲斐なのだ。だからこそ彼は常に強者を求めている。自分の欲求を満たしてくれる相手を渇望している。そして、ナマエはそんなヒソカのお眼鏡に敵う数少ない存在だった。
 彼女の纏うオーラは明らかに常人のものではない。一目見ただけで分かるほどに濃厚で濃密なそれは、紛れもなく強者の証だ。
 ――だというのに、この女ときたらまるで戦う意思がないのだ。戦闘が始まって既に一時間以上が経過しているというのに、ナマエはただ逃げ回るばかりで立ち向かってくる様子がない。窮地に追いやられてもなお彼女はその姿勢を崩そうとしない。それがヒソカにとって何よりも不愉快だった。

(期待はずれだったかな……)

 強者との戦闘で昂っていた神経が徐々に醒めていく。目の前の女に対する興味が急速に失われつつあった。
 ヒソカはナマエの目の前までやってくると、おもむろに腕を持ち上げた。その手には一枚のカードがある。ジョーカーだ。それをナマエの眼前に突き出すと、口角を上げて笑みを浮かべた。

「どうしたらボクと本気で殺り合ってくれるんだい?」

 ヒソカの問いかけにも、ナマエは無反応のままだ。黙して視線を向けるだけのナマエを見て、ヒソカはつまらなそうに肩をすくめた。
 もういいだろう。これ以上付き合っていても仕方がない。

「……もう終わりにしよう」

 そう言って、とどめを刺そうとした時だった。

「どうしても私と戦いたいの?」

 それまで無言を貫いていたナマエがようやく言葉を発した。
 ヒソカは内心、おやと思った。ようやくやる気になったのだろうか。ヒソカは振り下ろしかけた手を止めて「ああ、もちろん」と答えた。
 すると彼女は口を一文字にして黙り込んだ。歯を食いしばっているのが顎の筋肉でわかる。何かを迷っているようだった。ヒソカは一旦相手の出方を待った。
 やがてナマエは意を決したように息を吐き出すと、真っ直ぐにヒソカの目を見た。

「じゃあ私の恋人になって」
「……ん?」

 思いもよらない言葉に、ヒソカは目を瞬かせた。

「どういう意味だい?」
「そのままの意味よ。私と付き合ってくれるなら、あなたと本気で戦ってもいい」

 ナマエが淡々と答える。ヒソカは指先でトランプを弄びながら思案した。
 交換条件というわけか。それにしても恋人とは随分と突拍子もない話だ。一瞬ふざけているのかとも思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。ナマエの瞳からは真剣さが伝わってくる。
 一体どんな意図があってそんなことを言い出したのかは分からないが、面白い。消え失せていたナマエへの興味が再び湧き上がってきた。

「ひとつ確認したいんだけど、キミ、ボクのことが好きなのかい?」
「じゃなきゃこんな条件出さないでしょう」

 ナマエは眉一つ動かさないまま即答する。しかしその声は僅かな苛立ちを孕んでいた。心なしか纏うオーラも揺らめいたような気がする。

(へぇ……これは予想外)

 ヒソカはまじまじとナマエの姿を眺めた。
 ナマエは常に冷静沈着な女だった。感情の起伏が極端に少なく、無表情でいることがほとんどだ。しかし今、目の前にいる彼女からは普段感じられない感情が滲み出ている。ようやく垣間見えた綻びにヒソカは強く惹きつけられた。
 もっと見たい。彼女の素顔を引き摺り出してやりたい。そんな欲求に突き動かされるように、ヒソカは一歩前に出た。

「キミにそんな風に思ってもらえてたなんて知らなかったよ。嬉しいなぁ……」

 ヒソカは身を屈めてナマエの顔を覗き込んだ。途端にナマエは顔を俯ける。

「ボクのどこを気に入ってくれたんだい?」
「……知らない」

 その口調はぶっきらぼうで、明らかに機嫌を損ねていることを示していた。ヒソカは喉の奥でくつくつと笑い声を上げた。

「ねぇ、教えてくれないか」
「…………」
「だんまりは寂しいなァ……」

 ヒソカの長い爪が、ナマエの頬を軽く撫ぜる。瞬間、ナマエは弾かれたように顔を上げた。

「どこを、なんてこっちが知りたい。私と殺し合うことしか興味ない人なのに、どうして……」

 ナマエは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、忌々しげに呟いた。その瞳には怒りが宿っている。どんなに甚振っても顔色一つ変えなかった彼女が初めて見せた感情の発露だった。
 ヒソカはぞくりと背筋を震わせた。素晴らしい絵画を鑑賞するように、あるいは珍しい昆虫を観察するように目を大きく見開き、そして愉悦に満ちた表情を浮かべる。

(いいねェ……)

 ナマエが見せる一面はどれも新鮮で、想像以上に素晴らしい。もっと彼女の色んな顔が見たい。たとえば愛する男に裏切られた時、彼女は一体どんな顔を見せてくれるだろう。その夢想はまるで麻薬のようにヒソカの脳を刺激した。
 ――欲しい。この女が憎しみに駆られ、殺意を剥き出しにする様をどうしても見たい。そのためならどんなことでもしてみせよう。ヒソカは興奮を抑えきれず、舌なめずりをした。

「……いいよ、キミの提案に乗ろう」

 そう言うと、ナマエの頬に手を添えた。まるでキスでもするかのように顔を寄せながら、ゆっくりと囁きかける。

「ますますキミに興味が湧いてきちゃったなァ……きっとボクたち相性いいよ」

 ナマエの身体が震え、眉間に深いシワが寄る。そしてぎろりとヒソカを睨み上げた。

「どうせすぐ飽きるくせに。このペテン師が」

 吐き捨てるような言葉に、ヒソカは一瞬目を見張った後、堪えきれないといった様子で笑い出した。
 あぁ、自分は今まで彼女の何を見ていたのだろう。こんなにも健気で、愛らしくて、哀れな生き物に気づかなかったなんて。

(これはしばらく退屈せずに済みそうだ……)

 新たな玩具を見つけたことに胸躍らせながら、ヒソカはナマエの喉元に唇を落とす。ナマエは一瞬肩を強張らせたものの、抵抗はしなかった。
 ヒソカは深く微笑むと、ナマエの耳元で甘く囁いた。

「よろしくね、ナマエ」

 こうして、二人の奇妙な恋人ごっこが始まった。


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