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わたしがいちばん愛してるひと


 がらんとした部屋の中央には、天蓋付きの巨大なベッドが鎮座している。ベッドの四隅に立つ柱が天蓋を支え、その天蓋からふっさりと四方に厚いカーテンが垂れていた。それ以外の家具は置かれていない。必要がないからだ。この部屋はたった一つの目的のためだけに存在している。
 ベッドの片隅に腰を下ろし、私はじっと耳をすましていた。遠くから微かな足音が聞こえてくる。足音の主は考えるまでもない。こんな離れまで足を運ぶ人間はただ一人だ。
 だんだんと足音が大きくなる。一歩、また一歩と近づいてくる気配に、掌がじんわり湿ってゆく。普段足音を消している彼があえて音を立てる意図は分からない。猶予でも与えているつもりなのだろうか。余計なお世話だと舌打ちし、この部屋唯一の出入り口である扉を見つめた。
 やがて両開きの扉が開け放たれ、私から全てを奪った男が姿を現した。

「旦那様……」

 ゾルディック家の現当主であるシルバ=ゾルディックが、鷹揚な笑みを浮かべて立っていた。ここから扉まで十メートルは離れているというのに、彼が身に纏うオーラの強さに圧倒される。
 こちらを見据えたまま、シルバはゆっくりとした足取りで近づいてきた。とっさにベッドから降りて膝をつこうとしたが、視線で制される。私がこういった振る舞いをすることを彼は許さなかった。
 目の前までやってくると、自然とこちらが見上げる形になる。頭二つ分近く高い彼の顔には物騒な笑みが浮かんでいて、精悍な顔立ちに凄味を添えていた。思わず目を逸らしたくなるのをなんとか堪える。

「変わりはないか」
「はい」
「しばらく顔を出せなくて悪かった」
「いえ、気にしてません」

 短く答える。それは紛れもない本心だったが、どうやら相手はお気に召さなかったようだ。ゴツゴツした太い指に頤を掴まれ、ぐっと顔を寄せられた。

「つれないな。俺はお前に会いたかったというのに」

 艶のある声に、背中の毛が逆立つ。よく言う、と喉の奥まで出掛かった言葉を奥歯で噛み砕く。
 そんな私の反応を楽しむかのように、今度は耳に唇を押し付けて囁かれた。

「ナマエ」

 低い声が耳朶に流し込まれ、ふるりと身体が震えた。思わず目をつむる。行為中を思わせる声色に我慢ができなかった。

「なんだ、もう降参か?」

 つむった瞳の闇の中から、からかうような甘い声が迫ってくる。耳の後ろ、そして首筋に強いキス。じわじわと熱が高まり、鼓動が早くなっていく。戯れのような触れ合いだけでこうなってしまう己の身体が疎ましかった。

「っ……」

 太い腕に抱きすくめられて、口づけられる。少し開いていた唇の隙間から、彼の舌が入り込んできた。ぬるりとした肉厚の舌はとても熱い。その熱に蕩けるように、何かがぐずぐずと崩れてゆく。

「んっ、ぁん」

 舌先で上顎を擽られると、鼻にかかったような甘ったるい声が出た。私は両腕を広げて彼の背中に手を回した。大柄な彼の身体には腕が回りきらず、太い肩甲骨に触れることしかできない。それでも無我夢中で縋りついた。
 体をピッタリと密着させて、舌を絡め合う。キスの合間に彼の顔を盗み見る。その顔には、欲望をたぎらせた雄そのものの表情が浮かんでいて……、ぞくぞくするほどそそられる。
 ベッドに引き摺り込まれ、逞しい躰に組み敷かれる。私の胸元を彼がまさぐる。好みを知り尽くした指に、一気に火が点いた。
 どうして彼の手はこんなにも気持ちが良いのだろう。快楽の波に飲み込まれかけた意識の片隅でそう思った。温もり、肌触り、汗の匂い、心臓の音。何もかもがピッタリと当てはまる。重ならないのは心だけだ。
 心と体がバラバラになるのを感じながら、私は濃密な夜に身を委ねた。



 髪をすく指の感触で目が覚めた。部屋は暗く、まだ明け方にもなっていないようだ。起き抜けでうまく焦点が結べず何度か目を瞬かせていると、また髪をなでられた。ベッドの縁に腰掛けた彼が私の頭にさわっている。そこでようやく、さっきまでこの男と獣じみた行為に耽っていたことを思い出した。
 ひどい倦怠感と自己嫌悪に襲われる。彼に抱かれた後はいつもこうだ。最中どんなに盛り上がったところで、終わってしまえば虚しさしか残らない。湿っぽいシーツの中で、私はひそかにため息をついた。
 シルバはすでに服を身につけていた。こっちはしばらく動けそうにないというのに、彼は物ともしない様子だった。腹立たしいほど涼しい顔をしている。
 ベッドが軋み、彼が立ち上がるのが分かった。私はすかさず目を瞑った。セックスの後に会話をするのがどうにも苦手で、いつもこうしてバレバレの寝たふりをしてしまう。そうしていたらいつの間にかいなくなってくれるのに、今日は一向に去る気配がない。はやくどっか行けと思いながら寝たふりを決め込んでいると、頭上から声がふってきた。

「明後日、本邸に顔を出すように」

 割り込むようにはっきりと空気を震わせて届いたので、さすがに無視するわけにもいかず渋々シーツから顔を出した。

「どうしてですか」

 不機嫌丸出しの私に、彼は喉の奥で笑いを押しつぶす。

「しばらく来ていないだろう。たまには顔を出しにこい」
「ですが……」
「あいつもお前に会いたがってる」
「キキョウ様が?」

 その名を口に出した途端、銀色の瞳に不穏な色が過ぎった。ほんの一瞬向けられた殺気に、首筋の毛がチリチリと逆立つ。
 自分から言い出したくせに、名前を出したくらいでこんな視線を送ってくるのだからおかしな話だ。何度裸になって抱き合ったところでこの男と分かり合うことなんて出来やしない。
 意固地に唇を引き結ぶ私に、彼は人の悪い笑みを浮かべた。

「明後日だ。いいな」

 有無を言わせぬその言葉に、私は頷くこともできなかった。それは紛れもない命令だった。私に拒否権はない。
 シルバは踵を返し、迷いのない足どりで部屋を出ていった。

「悪趣味な……」

 がらんとした部屋に自分の声だけが虚しく響いて消える。
 足音は、もう聞こえてこなかった。



 その日は朝から憂鬱だった。シルバから言い渡された本邸の訪問日だったからだ。
 彼はこうして時折私を本邸に呼びつけた。その真の意図は解らないが、私にとっては嫌がらせ以外の何物でもない。
 いっそ反故にしてしまいたくなる。しかし長年の習慣の弊害なのか、私はどうにも彼の命令に逆らうことができなかった。
 鬱々とした気分で身支度を整え、屋敷を出る。当然私一人で本邸まで向かうつもりだったが、思わぬ人物が出迎えてくれた。

「お迎えに上がりました」

 恭しく頭を下げるゴトーの姿を見て目を見張る。慌てて彼のもとへ駆け寄った。

「ゴトーさん、こんなところまですみません」
「ナマエ様、私に敬語は不要です」

 ピシャリと切り捨てられる。線引きされたのだと分かって、私は奥歯を噛み締めた。かつては執事長である彼に私が頭を下げる立場だったというのに、強制的にひっくり返された関係性を目の当たりにして、なんとも言えない苦々しさが胸の中に広がった。

「本邸までご案内いたします」

 踵を返して進んでいく背中の、数歩後ろをついて歩いた。
 本当は案内なんて必要ない。これは案内人という名目の見張りだ。誰の指示かは分からない。この家で、私の存在を疎ましく思わない人間などいないのだから。

 しばらく歩き続けると、本邸が見えてきた。堂々たる石造りの大邸宅を仰ぎ見て、思わずため息が漏れる。

(気が重い……)

 前回本邸を訪ねたときのことを思い出す。あの日は運悪く一族の人間がほとんど揃っていて、まさに四面楚歌といった状況だった。特に厄介なのは上の息子二人だ。この家の子供達は存外自分の母親を愛しており、母親の敵とも言える私の存在を忌み嫌っている。出来ることなら顔を合わせたくない。
 やっぱり逃げ出してしまおうか。そんな考えが脳裏を掠めたとき、目の前の背中がふと立ち止まった。

「イルミ様は今日はいらっしゃらない」

 くるりと振り返ったゴトーが唐突に切り出す。まるで心を読まれたかのようなタイミングに驚いた。ゴトーは銀縁の眼鏡を押し上げると、さらに付け加えた。

「ミルキ様は新作のゲームに夢中で自室から出られる様子はない」

 淡々と告げる彼の表情は変わらない。厳格な執事の顔のままだ。しかし、向けられる眼差しはどこか柔らかかった。
 言外に伝わる優しさに、思わず泣きそうになった。この家にもまだ私を気遣ってくれる人がいると思うと涙が出るくらい嬉しい。同時に切なくもあった。もう二度と戻らない関係性は、こんなにも人を苦しくさせる。

「ありがとうございます」

 声が震えそうになるのを堪えながら深々と頭を下げる。ゴトーは小さく咳払いをすると、また前を向いて歩き始めた。



「ではオレはここで失礼します」

 正面玄関までやってくると、ゴトーは頭を下げて屋敷の裏手に足を向けた。そこに別の使用人用の出入り口があるからだ。一族の者と客人以外が正面玄関から出入りすることは許されていない。招かれざる客である私もここから入るしかない。心細さと居心地の悪さを感じつつ、玄関の扉をくぐった。
 久しぶりに足を踏み入れた邸宅は何も変わっていなかった。玄関ホールの大広間を飾る豪奢な調度品も記憶にある限り目新しいものは見当たらない。屋敷内に漂うどこか物々しい雰囲気もそのままだ。幼い頃からずっと身近にあった空気に懐かしさが込み上げてくる。
 郷愁を振り払って、ホールの右側にあるドアに向かう。そこが客間に通じているからだ。あまり人が寄り付かない客間で身を潜めていようという算段だった。
 しかし通路に出た途端、びりっと空気が震え、私は体を硬くした。通路の明かりが消されたわけでもないのに、突如、視界が翳ったような錯覚に陥る。私はその場から一歩も動けなくなった。
 コツ、コツ、と遠くの方から靴音が聞こえてくる。硬質なのに優雅なその音に鼓動が大きくざわめいた。さっそくか、と私は緊張した頭の片隅で思う。
 ――やがて、豪奢なドレスに身を包んだキキョウが、通路の奥から姿を現した。

「珍しいお客様ね」

 私はごくりと唾を飲み込んだ。怖くてたまらない。けれど、なけなしの矜持で心を奮い立たせ、背筋を伸ばす。彼女の前でみっともない姿を晒さないように、足を揃えて姿勢を正した。

「ご無沙汰しております、奥様」
「まぁ、奥様だなんて! そんな他人行儀な呼び方はよしてちょうだい」

 にっこり笑ってその人は言った。知らない人が見たら、優しげに微笑んでいるように見えるだろう。しかしそれは紛れもない嘲笑だった。

「いやだわ、貴女が来ると分かってたならもっと丁重に出迎えたのに! パパったらいつも事後報告なんだから!」
「申し訳ありません」
「あら、どうして貴女が謝るのかしら」

 語尾が厳しく私の胸を刺す。途端に何も言えなくなる私に、彼女はふふ、と可憐な笑みをこぼした。

「せっかくの機会だけれど、今日は別の用事が入ってるの。また改めてお茶に誘わせてくださいな」
「はい。ぜひ」

 なんとか表情を取り繕って返事をする。キキョウはこちらを値踏みするように視線を上下させた後、ゆったりとした足取りで近づいてきた。
 そのまま横を通り過ぎるかと思えば、彼女は目の前で立ち止まった。縮まった距離に萎縮する私を見下ろして「そういえば」と穏やかな口調で切り出した。

「庭に厄介な害獣が迷い込んだのよ」
「害獣、ですか」

 唐突な話題の転換に驚きつつ相槌を打つ。キキョウは持っていた扇子を開いて口元を隠した。

「そう。盛りのついた雌猿が夜な夜な喚いているみたいなの」

 彼女の言葉の意図するところを察して、カッと全身が熱くなる。咄嗟に下を向くと、頭上から甲高い声が浴びせられた。

「あぁ、嫌だわ! 庭にそんなのがいると思うとおぞましい! 貴女が住んでるあたりは平気だったかしら?」

 彼女からの質問。私はそれに答えなければならない。私は消え入りそうな声で、はい、とだけ返した。

「そう。ならよかったわ」

 彼女は優しい声色でそう言った。けれど、彼女の内面は怒りの炎で燃え盛っている。
 私は俯いたまま息を詰めていた。とてもじゃないけど顔を上げることができなかった。そんな行動を咎めるように彼女の指先が私の顎を軽く上げる。猫でも可愛がるかのように撫でられた。

「さっさと捕まえて、ミケの餌にしてやりたいわ」

 優しい手つきとは正反対の言葉が胸に突き刺さる。
 ――あぁ、私はこんなにもこの人に嫌われている。

「私は貴女が心配なの。あんなところで独りぼっちじゃ可哀想でしょう? 早く私の手元に戻してあげたいわ」

 彼女の言葉が空々しく響く。そんなことは一欠片も思っていないことが伝わってくる。それでも私はありったけの勇気をかき集めて言った。

「ありがとうございます。私も早くキキョウ様の元に戻りたいです」

 言った途端、彼女が殺気立つのが分かった。
 顎を持ち上げていた手が離され、まるで汚れたものに触れた後のように払われる。

「あら、冗談よ? 真に受けないでちょうだいね」

 口許には笑みが浮かんでいたが、こめかみに力が入っている。興奮している証拠だ。挑発の言葉だと思われただろうか。でも、それは紛れもなく私の本心だった。

 かつて私はキキョウ様の執事だった。
 代々ゾルディック家の執事としてお仕えしてきた一族の子として生まれ、血の滲むような訓練を経て執事になり、奥様の専属としてずっと傍でお仕えしてきた。私は忠実な執事だった。彼女からも信頼を置かれていたと自負している。
 しかし、私は彼女に特別な感情を抱いてしまった。執事としてあるまじき感情だ。当然墓場まで持っていくつもりだった。誰にも気付かれぬよう振る舞う覚悟もあった。しかし、心の奥底にしまい込んだ熱情をあの男だけが見抜いたのだ。
 自分の妻に懸想する執事などさっさと処分すればいいものを、あの男はそうしなかった。私から執事という立場を剥奪し、あろうことか愛人として囲い始めたのだ。
 シルバの考えてることはよく分からない。彼の中での一番はキキョウだ。そこは揺るぎない。しかし結果的に、私は愛する人に心の底から憎まれるようになってしまった。

 キキョウは蝋で固めたような笑顔を浮かべて、じっと私を見ていた。しみひとつない白皙の肌の下は、悪意が煮えたぎっている。張り詰めた空気に息が止まりそうだった。

「――さて、私はそろそろお暇しようかしら」

 沈黙を破ったのは彼女だった。

「貴女はここを我が家だと思って、ゆっくり過ごしてちょうだい」

 そう心にもないことを言い残し、ドレスの裾を翻す。歩き方が心なしか乱暴に見えるのは気のせいじゃないだろう。絡みつくクモの巣を払いのけるような、いまいましさに満ちた所作。
 去っていくキキョウの背中を眺めながら、私は小さく息を吐き出した。何の沙汰も下されなかったことに安堵すると共に、一抹の寂しさが胸をよぎる。
 彼女から嫌われていることを思い知らされるたび胸が痛むけれど、悲観ばかりしているわけじゃない。一介の執事に過ぎなかった頃には決して向けられなかった激情は、私に得も言われぬ充足感をもたらした。

(お慕いしております、奥様)

 秘密を打ち明けたとき、彼女はどんな反応をするだろう。軽蔑に満ちた目で一瞥されるか、はたまた半狂乱になっておぞましいと叫ばれるか。もしかしたらこの場で撃ち殺されるかもしれない。それでもいい。美しいあの人の手で殺されるならば、それも本望だと思った。



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大好きなぱんつさんへ。お誕生日おめでとうございます!


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