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氷だった春なのに


 文句を言いたいことは山ほどある。
 こちらの都合なんてお構いなしに仕事を依頼してくることだとか、その仕事が一週間も拘束される豪華客船の上で、しかも船内で催される夫婦同伴のパーティーに潜入するため妻役を演じる必要があったりだとか、挙げ始めたらキリがない。
 ――しかし兎にも角にも目下の問題は、部屋の中央にでかでかと鎮座するベッドについてだ。
 今日から一週間過ごす予定の部屋には、ベッドが一つしかなかった。ソファベッドのように部屋にある何かが寝具に変わったりしないかと辺りを見回してみたけど、他にはテーブルと一人掛け用のソファが置かれているだけで、どう見ても寝れる場所は一つしかない。
 私は軽い立ちくらみを覚えつつ、元凶である男にクレームをつけた。

「ダブルルームとか聞いてない……」
「言ってないからね。特に聞かれなかったし」

 すでにソファで寛いでいるイルミがしれっと答える。それがどうしたと言わんばかりの態度だ。苛立ちを抑え込み、過剰反応にならないよう気を付けながら言葉を続けた。

「表向きは夫婦だから同室なのは仕方ないけど、ここまでする必要ある?」
「別にあえてこの部屋にしたわけじゃないよ。適当に選んだだけ」
「だったらツインか、せめて簡易ベッドがついてる部屋にして欲しかった」
「ふーん。なら前もってそう言えばよかったのに」

 ぐっと息が詰まる。たしかに一理ある。というか、土の中でも眠れるような人間にそんな配慮を期待したのが間違いだった。
 とはいえ、はいそうですかって簡単に受け入れられることじゃない。イルミにとっては取るに足らない瑣末なことでも、私にとっては由々しき事態だ。

(イルミと同じベッドで寝るとか、絶対に無理!)

 考えるだけで身悶えしたくなるような羞恥に襲われる。想像だけでこれだ。実際にそんなことになったらにどんな醜態を晒すか分かったものじゃない。絶対に回避しなくては。
 一度引っ込めた文句をふたたび続けようとするが、遮るようにイルミが口を開いた。

「そんなに嫌ならもう一部屋とったら? もちろんナマエの自腹だけどね」

 こいつ、と喉の奥で低く唸る。こちらの懐事情を知った上でそんなことを言ってくるのだからとことん性格の悪い男だ。

(でも、背に腹は代えられないか……)

 イルミは梃子でも動かないだろうし、自分でどうにかするしかないだろう。とりあえず物置でもなんでもいいから空いてる部屋がないか船の客室係に聞きに行こう。そう決めて動き出そうとした途端、イルミがソファから立ち上がった。

「な、なに?」

 無表情でずんずん迫ってくるイルミに若干気圧されつつ、それでも逃げずにとどまる。目の前にやってきたイルミが傲然と見下ろしてくる。

「――ナマエさ、」

 イルミの目が酷薄に細められる。なんだか嫌な予感がする。

「どうせもうバレてるんだし、そうやっていちいち反抗的な態度とって誤魔化すのやめたら? はっきり言って浅知恵だよ」
「なっ……」

 辛辣としか言いようがない言葉に思考が爆破されたような感じになって絶句した。それから、すうっと体温が下がって、けれど逆に首から上が熱くなる。痛恨の一撃だった。
 ――薄々、気付かれているだろうとは思っていた。その上で利用されていることも分かっていた。無茶な仕事を振っても結局は引き受ける私を内心嘲笑っているだろうとも。人の恋を気軽に利用しやがって、と思いはするけれども、こういう人間を好きになった自分の自業自得だと諦めていた。
 だからと言って、どんな扱いをされてもいいわけじゃない。私にだってプライドがある。言われっぱなしは我慢ならない。

「反抗して何が悪いのよ。嫌なものは嫌なの」
「何が嫌なの? ただ同じベッドで寝るだけなのに」

 気にする方がおかしいと言わんばかりの口ぶりに、グッと唇を噛み締めた。分かってはいたけど、まったく意識されていないことを改めて突きつけられている気分だ。でも、傷ついてる顔なんて死んでも見せたくない。

「こっちから言わせれば、誰彼構わず同じベッドで寝れる方がどうかしてる」

 悲しい気持ちを怒りに置き換えて言った。今感じるべきは悲しみではなく怒りなのだと自分に言い聞かせる。

「私はそこまで図太い神経してないの。別の部屋取らせてもらうから」

 そう言い放って、部屋を出るため踵を返そうとした。しかし腕を掴まれ阻まれる。思わず舌打ちしそうになった。

「離して」
「お前さ、少しはオレの話聞いたら?」
「もう話は済んだでしょ」
「済んでないよ」

 はー、とわざとらしい溜め息が頭上から降ってくる。

「ナマエっていつもそうだよね」
「何がよ」

 そっぽを向きながら聞き返すと、イルミが手を伸ばしてきた。私の顎を片手で軽く掴み、視線を自分の方へと引き寄せる。出し抜けに触れられ、不覚にもドキッとしてしまう。

「そうやって一人でぐちゃぐちゃ考えて勝手に自己完結してるみたいだけど、一度でもオレの気持ちを確かめたことがあった?」
「は……?」

 一瞬、何を言われてるのか分からなかった。

(何を今さら……そんなの、聞かなくても分かりきってることじゃない)

 発言の意図がわからず顔を顰めていると、イルミが身を屈めてきた。驚く私のうなじに手を回し、ぐいと引き寄せる。抱きつかれるような、キスでもされそうな体勢になって、喉の奥が凍りつく。私はイルミから距離を取ることも忘れて、ぽかんとした。

「ひとつ言っておくけど、オレはどうでもいい人間と一週間も同じ部屋で過ごせるほど寛容でも無神経でもないよ」
「は、はぁ」

 正直、まともに頭に入ってなかった。距離が近すぎてそれどころじゃない。
 適当に返事していることが伝わったのか、イルミは眉を顰めた。

「もっとはっきり言ってやらないと分からない?」

 ものわかりの悪い子供を相手にするような態度だ。でも、この妙な空気はなんだろう。すっかり相手のペースに呑まれ気圧される私に、イルミはさらなる追い討ちをかけてきた。

「聞きたくないの? オレの本心」

 じいっと見つめられる。黒々とした目には妙な凄みがあった。思わずごくりと唾を飲み込む。
 ――怖いと思った。これ以上聞いたらまずい気がする。うまく言えないけど、踏み込んだら最後、もう戻れなくなるような、私には手に負えない何かが始まるような……そんな予感がした。
 とっさに抱いた恐怖心に逆らわず、私は白旗を上げた。

「あ……いやその、まだ結構、です」

 神妙に答える。情けないけど今はこれが精一杯だった。
 完全に怖気づいた私に、イルミは見下すような、仕方ないと甘やかすかのような表情を作った。

「ナマエって実は小心者だよね。でもまあいいや。無様にもがくお前を見てるのも悪くないし。――今はまだ、ね」

 なんだかものすごく貶されている気がするけど、反論する気は起きなかった。とにかくここは逆らわない方がいいと本能が訴えている。
 絡みついていた腕がようやく離れる。どっと全身に血液が巡る。忘れていた呼吸を取り戻したように肺が忙しなく膨らんではしぼんだ。

「じゃ、この話はもう終わり」

 軽い口調でそう言って、イルミはソファに戻っていった。
 こちらの胸中にはまだ嵐が吹き荒れていた。そもそも根本の問題は何も解決しちゃいない。何だか良いように丸め込まれただけのような気がする。だけど私にはもう会話を再開する余裕は残っていなかった。


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