足りぬ存ぜぬ獣の内
いつもよりペースが早い自覚はあった。酔った頭の片隅でこのままじゃまずいと分かっていたけれど、グラスを重ねるごとに思考がぼやけてしまい、最終的には前後不覚になるほど泥酔していた。
ちょっと目をつむるだけのつもりが、どうやらそのまま寝てしまったらしい。次に目を覚ました時には、さっきまでいたはずの店ではなく薄暗い部屋で横たわっていた。
「ん……あれ……」
一瞬、床に寝転がっているのかと思ったけれど、背面に感じる柔らかい感触からどうやらベッドかソファの上であることが分かる。
ぼんやりとした意識の中、目だけを動かして辺りを見回す。が、寝起きのせいでなかなか焦点が定まらなかった。
「どこ、ここ……」
「お前の部屋」
不意にもたらされた答えに、一瞬幻聴が聞こえたかと思った。
アルコールでぐらつく頭を緩慢にあげれば、すぐ近くのソファに座るイルミと目が合った。
(なんでイルミがうちに?)
まだ頭がふわふわして、思考がまとまらない。
視線を合わせ、たっぷり三秒は経過しただろうか。ぼんやりと眺めるだけの私に、イルミは痺れを切らしたように口を開いた。
「ナマエが酔っ払った挙句にぐーぐー寝始めてまったく起きる気配なかったからここまで運んでやったんだよ」
一息で告げられた内容に、私はようやく我にかえった。
(そうだ……たしかさっきまでイルミと飲んでて、ほぼ私ひとりでワイン一本空けたんだっけ)
ふやけた脳が冷静さを取り戻す中で、徐々に記憶も蘇ってくる。同時に血の気も引いていった。
(うわぁ、店で寝落ちするとか最悪だ私……)
自己嫌悪に陥りかけるが、何はともあれ謝罪だと思い直す。力の抜けた体を叱咤してベッドから上半身を起こした。
「たいへんご迷惑をおかけしました……」
深々とイルミに頭を下げる。そのまま自重で前に倒れそうになったが、立ち上がったイルミに肩を押さえられた。
「いいよ」
思いがけず優しい声が降ってきて、あれ、と拍子抜けする。てっきりボロクソに扱き下ろされると思っていたから、肩透かしを食らった気分だった。
ぽかんとしていると、今度は水の入ったペットボトルを差し出された。なんだこれ。至れり尽くせりすぎてもはや怖い。
(あとで迷惑料請求されるとかないよね?)
らしくないイルミの行動にどぎまぎしつつ、受け取ったペットボトルを口に運んだ。冷えた水が喉を通って、少しだけ頭がスッキリする。
(それにしても、気を失うまで飲むなんて……)
自分の限界は分かっていたつもりだったのに、つい深酒してしまった自分に呆れてしまう。と、同時に、何事もなく帰ってこれたことに心底ほっとした。一緒に飲んでいたのがイルミだからよかったものの、タチの悪い相手だったらどんな目に遭っていたか分かったものじゃない。考えるだけでゾッとする。
「イルミでよかった」
無意識に呟いていたらしい。こちらを見下ろしていたイルミがすかさず反応した。
「何それ。どういう意味?」
「――あ。いや、一緒にいたのがイルミでよかったと思って。相手によっては危ない目にあってたかもしれないし」
だから今日はありがとう、と素直な気持ちを口に出した途端、イルミの顔からすうっと表情が消えた。周囲の空気が、どんどん重く不快なものをはらんでいく。――あれ、もしかして地雷踏んだ?
「ナマエってさ、オレのこと舐めてるよね」
「へ?」
急にそんなことを言われて、私はぎょっと目を剥いた。
(なんで急にそうなるの!?)
イルミを舐めるだなんてとんでもない。私はそこまで命知らずじゃない。
すぐさま否定しようとしたけど、こちらの返事を待たずにイルミは畳み掛けた。
「それとも他のやつの前でもそんな感じなわけ」
「そんな感じ……?」
よく分からないけど、良い意味で言われてないことだけは分かる。鋭い視線で射抜かれ、ざわざわと心臓が落ち着かなくなった。頭の中で警報が鳴り響く。このままじゃまずい気がする。
「あの、気に障ったならごめん」
とりあえず謝っとけ精神で頭を下げれば、これみよがしの溜息を吐かれた。どうやら不正解らしい。
(じゃあどうしろと)
途方に暮れた気持ちでいると、ふいにイルミが顔を覗き込んできた。至近距離で見つめられ、自然と背筋が伸びる。
(え、なに。なんで近づいてくるの!?)
目を合わせていられなくて俯くと、イルミの気配が動いた。片手が私の耳を包むように撫でる。
「ひぃっ」
唐突な接触に心臓が縮み上がる。なんだこれ。急に不機嫌になったかと思えば、いきなり撫でてくるって、どういう法則で動いてるんだこの男は!
あまりの急展開についていけず硬直していると、イルミがさらに身を屈めてきた。互いの体温や息遣いがはっきり感じられる距離に、鼓動が落ち着かなくなる。
「は――」
離れて。そう言おうとした瞬間、耳元で低く囁かれた。
「オレ以外の前でそんなにバカで無防備だったら殺すから」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
何かとんでもないことを言われた気がすると反射的に理解して、愕然とイルミの顔を見返す。イルミはそんな私を無表情でじっと見つめている。そこでようやく脳まで言葉が届いた。
「ころ……っ!?」
危うく叫びそうになった。身の危険を感じて、あわててイルミから身を離す。
イルミの物騒な一言に酔いが一気に霧散していく。だけど今度は混乱に襲われて、頭がまっしろになった。
「わかった?」
とにかく殺されるのは嫌だったからこくこく頷く。だけどそれでは満足いかなかったらしくイルミはさらに「返事は?」と畳み掛けてきた。
「わ、わかりました……」
知らず敬語になる私に、イルミが満足げな目を向ける。
もしかして、イルミなりの冗談のつもりだろうか。……お願いだから、冗談であってほしい。
目の前の男の不気味な圧力に戦々恐々としつつ、もう二度と深酒はしまいと心に誓った。