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魔物は口をあけている


 目が合った瞬間、何だか怖いと感じた。

 その男はひと目で高級だと分かるスーツを身に纏っていて、この古びた修道院兼孤児院には不釣り合いだと思った。
 男は口元に薄い笑みを浮かべながら、宿舎の遊戯室にいる子供たちをじろじろと見回している。その姿が何となく獲物狙う獣のように見えて不気味だった。

「あの子は?」

 男が私の方を指差して隣に立つシスターに声をかける。シスターは顔を曇らせ、男に何事か耳打ちした。
 そのやりとりを落ち着かない気持ちで眺めていると、男はもう一度こちらを見た。私は何だか怖くなってその場を動こうとした。しかしそれより先に男がすっと足を踏み出す。じっと射竦めるような目で私を見つめながら、ゆっくりと近づいてくる。

「こんにちは」

 目の前に立ちはだかった男が明るい声で挨拶し、親しげに見える表情を向けてくる。それがどうにも胡散臭く感じられて、私はいぶかしむように見返した。しかし男の背後で睨みを利かせるシスターが「さぁ、ご挨拶を」と促してきたため、渋々挨拶を返した。
 男は何が面白いのかさらに笑みを深める。その作り物めいた笑顔に、妙な既視感を覚えた。

(あれ、この人、どこかで――)

 ふと湧いた奇妙な感覚の正体を紐解こうとした時、シスターが焦れたように声を上げた。

「この御方があなたを引き取りたいと仰っているのよ」

 耳を疑った。

(こんな見るからに金持ちそうな男が、何でわざわざ私なんかを?)

 とくに賢いわけでも、いかにも金持ちが好みそうな見た目をしているわけでもない。見た目も中身も極めて平凡。そんな私が選ばれた理由がわからず呆気にとられていると、シスターが目尻を吊り上げた。分不相応な待遇を与えられるのだから、せめて態度くらいはしっかりしろとその目は訴えていた。

「ありがとうございます」

 シスターの視線の圧に負けてとりあえず頭を下げる。頭上からフッと笑った気配がした。

(なんだか嫌な感じがする)

 この違和感は何だろう。寒いわけでもないのに腕に鳥肌が立って、二の腕をゆっくりとさする。そんな私とは対照的に男はますます喜色を溢れさせて、弾んだ声で言った。

「僕はこういう者です。貴女の名前を聞いてもいいですか?」

 男は身を屈め、まるで手品師のようにどこからか名刺を取り出して差し出してきた。
 私は戸惑った。どうすればいいか分からず、差し出されたそれをただただ眺めていると、シスターが「その子はまだ字が読めません」と冷たく言い放った。この歳で文字が読めないのは恥ずかしいことだと言われているようで思わず身を縮こませていると、男が優しく笑いかけてきた。

「字なんてこれから学べばいいんです。僕が最適な学習環境を用意しますよ」

 里親として完璧な回答のはずなのに、どこか嘘くさく感じてしまうのは私が捻くれているからだろうか。「はぁ、どうも」と気の無い返事をする私に、男は口の端をにんまりと上げた。変な男だ。
 男は名刺をしまい、今度は手を差し出してきた。

「申し遅れました。僕はパリストン=ヒルと申します」

 ――その名前を聞いた瞬間、まるで身体をどこかに激しく打ち付けたみたいに息が詰まった。

(パリストンだって?)

 愕然としながら、改めて目の前の相手を見る。途端に男の存在がはっきりとした輪郭をもって肉薄する。――私は、この男を知っている。
 全身に動揺が駆け巡って、鼓動が早まる。額のあたりに冷や汗が滲んでいくのが自分でわかった。思わず額に浮いた汗を拭ったとき、パリストンが訝しむような目を寄越してきた。

「どうしました?」

 声をかけられて、はっと我に返った。ここでうろたえたらダメだ。この男相手にいたずらに弱みを見せるべきではない。そう自分を叱咤し、きつく舌の先を噛んで乱れた心をなだめた。

「何でもありません」

 掠れた声が、パリストンを深く微笑ませた。邪悪としか言いようのない笑い方に背筋がゾッとする。その瞬間、自分の平凡な人生に幕が下りたように思った。




 すぐにでも家に迎え入れたいと言うパリストンに、孤児院のみんなにお別れを言いたいからと頼んで一晩の猶予をもらった。
 いつもより少しだけ豪華な夕食を平らげ、早めにベッドに入り夜が更けるのを待つ。そして皆が寝静まった頃を見計らい、ひっそりと孤児院の門をくぐった。路地裏を歩き抜け、大通りに出る。そこで一度立ち止まって、遠くにある礼拝堂の十字架を目を凝らして見た。五年間過ごした場所。私の小さな平穏を守ってくれた唯一の居場所。しかし感傷に浸るようなことはなかった。身寄りのない私を拾ってもらった恩はあるけれど、今の『私』には覚えがないのだから仕方がない。
 私は背を向けて走り出した。あとを追ってくる者はいない。それでも走らずにはいられなかった。

(パリストン=ヒル)

 その名を心の中で呟き、奥歯をきつく噛み締めた。

(ハンター協会副会長。十二支んの一人。たしか二ツ星か三ツ星ハンターだったはず。好青年な見た目に反して性格は狡猾。常に黒い噂が絶えず、腹の底が知れない人物……)

 息急き切って走りながら、パリストンに関する記憶を呼び起こす。
 私は一方的にパリストンという人物を知っている。なぜなら、かつて私が読んでいた漫画のキャラクターの一人だからだ。

 ――数ヶ月前、病で高熱に浮かされていた私は、唐突に前世の記憶を思い出した。
 そのフラッシュバックは強烈で、今世で生きてきた記憶も意識もすべて塗り替えられ、私は別人に成り代わってしまった。
 生まれ変わった世界が、前世で読んでいた漫画と酷似していることに気付いたのはそれから間も無くのことだった。記号のような文字。ところどころ聞き覚えのある地名。そして、ハンターという存在。
 当初は自分の身に起きた非現実を受け入れられなかった。しかし受け入れようが受け入れまいが、私を取り巻く現状は何も変わらなかった。特別な力が芽生えるわけでも、劇的な何かが起きるわけでもない。漫画の世界に転生した私を待ち受けていたのは厳しい現実だった。
 身寄りのない孤児の私はあまりにも無力で、日々を生き抜くだけで精一杯だった。いくら漫画の知識があったところで何の役にも立ちはしない。次第に、この世界にあのキャラたちが本当に存在するのかと疑わしく思うようになった。

 ――それでも心のどこかで、いつか彼らと会える日がくることを夢見ていた。孤独な私に誰か救いの手を差し伸べてくれるだろうと、そんなかすかな希望を捨てられずにいた。

(それがまさかパリストンだなんて)

 神様がいるのなら恨み言を言ってやりたい気分だった。どうしてよりにもよってパリストンなんだって。あんなのに連れて行かれたらどんな仕打ちを受けるか分かったもんじゃない。
 だから私は逃げることにした。行く当てはないけど、大きな街に出れば孤児院があるはず。そこに身を置けずスラムを彷徨うことになっても、あのままパリストンに連れて行かれるよりはずっとマシだ。
 私は小さな鞄を抱え直して、もう一度路地裏に足を踏み入れる。が、その時、強い衝撃に視界がぐらついた。

「――っ!」

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。ものすごい力で体の片側を引っ張られ、視界が反転する。反射的にぎゅっと目を瞑ると、浮遊感に襲われた。

「うわっ!」

 目を開くと、屈強な男が私をまるでネズミみたいにつまみ上げていた。

(え、うそ――)

 恐怖に血の気が引いていく。
 抵抗する間も無く、近くに停めてあった車の後部座席に放り込まれた。座席に顔面からぶつかって「ぐえ」と潰れたカエルのような声が出る。バタン、と背後でドアが閉まる音がした。

「こんばんはぁ」

 頭上から降ってきた声に、ぞっと全身が凍りついた。

「こんな遅くに外出とは感心しませんねぇ。あ、もしかして、やっぱりボクのところにくるのが待ちきれなくて飛び出してきちゃったんですかぁ?」

 耳に纏わりつくような声色が恐怖を煽った。心臓が痛いほど大きく鼓動し、鼓膜まで震わせている。
 いつのまにか車は走り出していた。誰か助けて、と心の中で叫びを上げた。

「あれっ、ボクの話聞いてます? 顔上げてくださいよ」

 なぜかその声には相手を従わせる圧迫感があって、私は恐る恐る顔をあげた。
 金髪の下の目が三日月のように細められる。その目の奥に底知れない闇と完膚なきまでの支配力が見てとれて私は悲鳴をのみ込んだ。この男から逃れられるはずないと思い知らされるには十分だった。

「これからよろしくお願いしますね、ナマエさん」

 歌うようにパリストンが告げる。それは死刑宣告に等しいものだった。

 私の平穏な舞台はあっけなく幕を下ろされた。再び幕が上がると、今度は喜劇が始まるのだろう。この男にとっては喜劇で、私にとっては目も当てられないような悲劇が。


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