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犬も食わない


「お前さ、オレと別れたがってるんだってね」

 何の前置きもなく告げられた言葉に息を呑む。主寝室に置かれたソファで優雅にお茶を楽しんでいるときのことだった。私は口に含んだ紅茶を慎重に飲み込み、意図を理解しかねるとばかりに素っ気無く答えた。

「なんのことかしら」
「へぇ、しらばっくれるんだ」

 イルミがソファに座る私の元へやってくる。とっさに言い繕おうと開きかけた口は、眼前に突きつけられたものよってあえなく閉ざされた。
 ばさりと音を立ててローテーブルに落ちた紙の束から『調査報告書』という文字が見て取れる。おそらく私が秘密裏に進めてきたことが克明に記されているんだろう。手にとって確認する勇気はなかった。

「ありもしない事実をでっち上げて、強引に離婚を成立させるつもりだったんだろ?」

 びくりと肩が震え、それを抑え込むように二の腕を握りしめる。それが返答のようなものだった。

(どうしてバレたんだ?)

 そんな疑問ばかりが頭の中を渦巻く。腕をきつく握りしめて俯いていると、イルミはあっさりとその答えを寄越した。

「実家の執事を使ったのは失敗だったね。直接問い詰めたら簡単に吐いたよ」

 心臓を殴られたように息が止まった。すぐには動き出せず、ぎこちない動作で顔をあげる。引き結んでいた唇が緩んで、その隙間から震える声が漏れた。

「そんな、まさか……」

 イルミが言う実家の執事というのは、私が幼少期の頃から家を出るまでずっと仕えてくれた執事のことだ。私は彼女に全幅の信頼を寄せていて、今回の計画も彼女にだけは打ち明けていた。イルミと離婚するため、偽りの証拠を仕込んでくれていたのも彼女だった。
 その彼女の口から漏れたと思うと、この場で倒れ込んでしまいそうなほどの衝撃に襲われた。

「――裏切られたってわけね」

 掠れた声で呟くと、イルミが目を眇めた。

「裏切る、ね。ま、お前からしたらそうなるか」

 含みのある物言いに、胸の内側が波立つ。
 イルミの態度は落ち着き払っていた。怒りを露わにするでもなく、妙に淡々としている。いくら感情の起伏に乏しいイルミといえど、今回のことは彼の勘気に触れるだろうと思っていたのに。私に欺かれようが何をされようが歯牙にも掛けないということだろうか。

(それくらいどうでもいい存在ってことか)

 場違いに落胆する自分に歯噛みする。この期に及んでまだ彼の関心を求める自分が惨めだった。

「まさかナマエが裏でこんなこと企んでいたなんてね。驚いたよ」

 私がしたことはイルミへの――ひいてはゾルディック家に対する反逆行為に等しい。到底許されるものではない。報いを受けることになるのは明白だった。
 私はうつむき、罰を言い渡される罪人にも似た心地で次の言葉を待つ。
 ――しかし、イルミの口から出た言葉は想像の斜め上をいくものだった。

「何が不満だったか教えて」
「――は?」

 思わず顔をあげた。意味が分からずぽかんとしてしまう。
 なぜそんなことを聞いてくるんだろう。さっそく尋問でも始めるつもりだろうか。

「さっさと独房でもなんでもブチ込めばいいでしょ」

 自棄っぱちに吐き捨てると、イルミはふうと息をついた。なんだか疲労を感じさせる溜め息だった。

「そうじゃなくてさ」

 そこで一旦言葉を切って、イルミは向かい側のソファに腰を下ろす。目線が近くなって改めてイルミを見ると、いつもと少しだけ様子が違っていることに気付いた。どことなく覇気がないというか、ほんのわずかに意気消沈して見えるのは気のせいだろうか。

「ナマエが思ってることを知りたいんだよ」

 驚きすぎて言葉を失う。
 本気で言っているのか分からず顔色を伺うと、予想外に真剣な眼差しとぶつかった。

「お前が別れたがってたなんてオレは少しも気付かなかった。何の不満もないと思ってたよ。でもこんな行動に出るくらいオレに対して思うことがあるってことだろ? だからこれを機にナマエの正直な気持ちを聞かせてもらおうと思って」

 私は表情を取り繕うことすら忘れて、イルミの顔を凝視した。
 あのイルミが、まるで私に歩み寄ろうとするかのような発言をしていることがにわかには信じられない。傲岸不遜にして冷酷非情。普段は他者に歩み寄る姿勢なんて微塵も見せない男が。
 これほどしおらしく、これほど人間らしいイルミの顔を、未だかつて見たことがなかった。
 驚きに打ちのめされて何も言えずにいる私を、イルミは眉間に皺を作ってじっと見ていた。その目に揺れ惑う心情の一部を覗き見た気がして、私は気付けば口を開いていた。

「私がしたこと、許してくれるの?」
「さあ。お前次第だけど」

 素っ気なく言い捨てられるが、それは肯定されたも同然だった。

「で? そこまでしてオレと離婚したかった理由は?」

 いきなり核心をつかれ、言葉に詰まった。
 今さらどんな顔して言えるっていうんだ。――愛してもらえなかったから、その腹いせに別れを告げてやるつもりだったなんて。口が裂けても言えるわけがない。
 返答に困って顔をうつむける。落ち着かない沈黙が漂い、数拍のあとにイルミがため息をついた。

「ま、答えたくないなら今はいいけど」

 あっさり引き下がられて、目を瞠る。てっきり口を割るまで問い詰められると思っていたのに。
 イルミは私との距離をはかりかねているようだった。あのイルミが、たった一人の女相手に気を遣っている。その事実が信じられない。
 うつむいたままぎゅっと眉間に皺を寄せた。不愉快だったわけではない。心臓がぎゅっと締め付けられて、息苦しさすら感じてしまったからだ。胸の高鳴りが激しくなる。私はイルミにそれを悟られないようにすることで精一杯だった。
 そこでふと思い出したようにイルミが口を開いた。

「あ、そうそう。ナマエの執事から伝言があったんだ。どうか今後は夫婦喧嘩に巻き込まないでください、だってさ」

 イルミの言葉に鼻白む。私にとっては一世一代ともいえる大きな決意だったというのに、夫婦喧嘩の一言で片付けられるとは。まるで他愛もないことだと言われているようで、どうにも釈然としない。
 微妙な顔をしていると、ソファにもたれかかっていたイルミがふいに身を乗り出してきた。

「喧嘩してるつもりはなかったけどね。じゃあ仲直りする?」

 首を傾げ、顔を覗き込まれる。突如縮まった距離に、うぐ、と喉の奥で唸り声がもれた。
 イルミが目元をほんのわずかに和らげる。その威力は絶大で、あやうく本音が漏れそうになる唇をあわてて引き結んだ。

 墓場まで持っていくと決めていたこの気持ちを打ち明ける日も遠くはないのかもしれない。


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