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この指先は悪夢


 端から諦めていた恋だった。恋をした相手は、恋愛など児戯のひとつとしか捉えていない人間だったから。その上、私のことなど足元を歩く蟻ぐらいにしか思っていないことも分かっていたからだ。
 こんなものはちょっとした感情のバグだ。時間が経てば一時の気の迷いだったと思えるはず。そう割り切ったつもりで私は日々を過ごしてきた。しかし予想に反して、胸に蔓延る不都合な感情は消えるどころか、ますます強くなるばかりだった。
 何度自分の愚かさを嘆いたことだろう。都合の良い幻想を打ち砕くために彼のひどい部分を繰り返し回想してみたりもした。それでも駄目だった。まともじゃないと頭では分かっていても、理屈や理性ではどうにもできない感情があるのだと知った。
 だからせめて、この気持ちだけは相手に悟られまいと固く心に誓った。単なる仕事相手。彼から依頼を受けてたまに顔を合わせる程度の希薄な関係。そこから逸脱するような言動を取らぬよう細心の注意を払い、無関心を装い続けた。それが、一人で負け戦に臨む私のせめてもの矜恃だった。
 気持ちを隠すという点においてはうまくやれていたと思う。でも、それだけだ。機微に聡いあの男を欺くことに精一杯で、他のことは何も見えていなかった。そのせいで大事なことを見落としていた。
 いつのまにか、気まぐれなあの男の関心を得てしまっていたことに。


 ――今、私を悩ませ続ける元凶が、隣で機嫌よくグラスを傾けている。
 待ち合わせた場所はホテルのショットバーだった。やけに雰囲気のある店で、少ない客は濃密な夜の空気に溶け込むように声を抑えて会話をしている。
 かくいう私も店内のBGMに埋もれてしまうような声量で喋っているが、その内容に色っぽさは欠片もない。すべて仕事の話だ。
 バーカウンターの薄暗い光に照らされた横顔を盗み見ながら、淡々と依頼された情報を伝える。
 私は情報屋を生業としている。隣に座る男――ヒソカは、贔屓にしてくれる顧客の一人だった。
 ヒソカが求める情報は多岐に渡る。どうしてそんなことを知りたがるのか疑問に思うことは多々あるが、理由を尋ねたことはない。どうせ強者との戦闘を叶えるために必要な情報なのだろう。この男ほど己の欲求に忠実な人間を私は他に知らない。
 持ち得る情報の全てを伝え終えた後、手元のカクテルグラスに口につける。ヒソカは満足げに頷くと、糸のように目を細めて笑った。

「相変わらずいい仕事ぶりだね。キミに頼んで正解だったよ」
「どうも」

 手放しの賛辞に、ひとつ大きく跳ねた鼓動を悟られないよう私は素っ気なく答えた。この男が気まぐれに見せる優しさに意味なんて無いと分かっているのに、いちいち翻弄される自分が嫌になる。
 ボロが出る前にさっさと退散しよう。そう思ってハイスツールから腰を浮かすと、すかさず「もう帰るのかい?」声をかけられた。

「つれないなぁ。まだ来たばかりじゃないか。もう少しボクに付き合ってよ」

 その台詞に、私は内心眉を顰めた。
 この男のこういうところが嫌なんだ。人が嫌がることを本能的に察知して、あえてそれを仕掛けてくる。どこまでも厄介な男だと思う。
 内心引き上げたくて仕方なかったけど、あまり意固地になっても不自然かと思い「じゃあもう一杯だけ」と座り直した。
 ヒソカは口の端を持ち上げて笑った。その表情はどことなくいつもより上機嫌に見えて、何がそんなに楽しいんだと恨み言を言いたくなるのを堪えつつ自然な口調を装って切り出した。

「何か良いことでもあったんですか。やけに機嫌が良さそうですけど」
「ん? あぁ、そうだね」

 答える気があるのか無いのか、ヒソカは氷の入ったグラスを手遊びに揺らしていた。しかし不意に横目で視線を流してきた。

「どうしてだと思う?」
「さぁ……あなたのことですから、戦い甲斐のある相手が見つかったとかじゃないですか」
「ん〜当たらずとも遠からずってところかな」

 焦らすような雰囲気を漂わせながら、グラスを口に運び、食えない笑顔を向けられる。どうにも揶揄われているような気がして、相手のペースに呑まれないよう冷静に切り返した。
 
「じゃあなんですか」

 いっそうヒソカの笑みは深くなる。そしてグラスに残った琥珀色の液体を飲み干すと、首を傾けて、ひた、と視線を合わせてきた。――その目の奥に、蜜のようなどろりとした甘さが滲んでいる。私は意図せずそれを認めてしまい、喉を鳴らした。

「残念ながら強くはないけど、それでも構いたくなる相手が見つかったんだ。ボクにしては珍しいだろ?」
「はぁ……」

 なんとか相槌を打てたけど、内心ひどく狼狽えていた。

(強くないけど構いたくなるだって? 一体なんの冗談だ?)

 まったくこの男らしくない発言だった。向けられる眼差しも異質だ。愛想よく振る舞いながらもいつもどこか冷めていた目が、今は得体の知れない熱を孕んでいる。その事実を受け止めきれず、頭がクラクラした。

「どうしたんだい?」

 黙り込んだ私の顔をヒソカが覗き込んでくる。混乱の海に水没しそうな心境だったが、かろうじて言葉をつないだ。

「いえ、何も」

 端的に返し、不自然にならないタイミングで視線を外す。
 まともに顔を見ることができなかった。けれど目の端で、ヒソカがじっとこちらを見つめていることが分かる。でも、ヒソカの視線はちっとも外れてくれない。痛みを感じるほど鼓動が高鳴った。

(まさかヒソカが私に興味を持つなんて)

 夢にも思わなかった展開に、私はほとほと困り果てた。
 初めから諦めていた恋だった。それこそ自覚した瞬間からこの想いが消えてくれる事ばかりを願っていた。だから、一度たりとも想像したことがなかったのだ。その声が、眼差しが、どれだけ甘美で、人を狂わすものかだなんて。

「ねぇ」

 声をかけられ、すぐに顔を上げられなかった。しまった、とほぞを噛んだときにはもう手遅れだった。ヒソカが笑っているのが気配でわかる。これは、付け入る隙をまんまと見つけたときの笑い方だ。
 ヒソカの腕が伸ばされ、私の髪を一束つかむ。長い指先がいたずらに髪をいじって、そのままするりと落とされた。たったそれだけのことに、おののくような歓喜が全身を通り抜けた。
 動揺のあまり頭が真っ白になって、されるがままになっていた。この場を乗り切る方法が全く思い浮かばない。

「キミって案外分かりやすいね」

 いやに甘く、からかうような口調で言われた言葉に、胸の奥で何かが弾けた。
 ――あぁ、そうだ。この男が異常なほど鋭いことを忘れていた。今さら取り繕ったところで、もう手遅れなんだ。
 急な脱力感に襲われて、私は目を閉じた。
 どうせすぐに飽きられて捨てられるのが関の山だ。気まぐれなこの男が、私に関心を持ち続けられるはずがない。分かっているのに、それでも縋り付こうとする馬鹿な女を殺してやりたかった。


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