欲しがらないよきみだけは 2
恋に落ちた人間は判断能力が低下するというが、あの頃の私は麻薬中毒者並みにイカれていた。
ふいの接触に胸をときめかせたり、目が合うだけでありもしない彼との未来を空想したり、私を呼ぶ声に特別な響きが含まれていると幻想を抱いたり……。惹かれるというのは、自分の中の螺子が一つずつ抜き取られてゆくことに似ている。螺子が外れた頭の中は四六時中パリストンのことでいっぱいだった。
今思えば狂っていたとしか言いようがないが、自分ではどうすることもできなかった。当時の私は正常な判断がまったく出来なくなっていたのだ。
――もっと彼のことが知りたい。彼にもっと私のことを知ってほしい。
その欲求は日に日に膨れ上がり、やがて制御できない衝動へと変わっていく。
そうてとうとう、この狂気じみた思いを打ち明けてしまった。
「ああ……残念です」
思い余って気持ちを吐露した私に対して、パリストンの反応は冷ややかだった。
執務室の机に肘をつき、額に手を当てて吐息を漏らす。さも迷惑ですと言わんばかりの様子に、胸に氷を当てられたようにひやりとした。
「毎日僕の傍にいながら一体何を見てきたんですか? まさか貴女の気持ちに応えて愛を囁くとでも?」
本音を見透かされたようで、かあっと頬が熱くなる。その反応を見て、パリストンはさらに落胆の表情を見せた。
「貴女はもっと賢い女性だと思っていましたが……認識を改めた方が良さそうだ」
的確に私を傷つける言葉を選んで、パリストンが目を細める。淀んだ瞳は私を値踏みしていた。その瞳に映り込む自分が無価値の存在に成り下がるのを確かに感じた。
胸の中に、するすると音もなく幾つもの小さな鉛の玉のようなものが降りていく。それは本当に鉛玉のように私の肉体の奥底に沈み込んでいって、身動きが取れなくなった。
「わざわざ言う必要もないと思っていましたが、ナマエさんはとぉっても察しが悪いようなのでちゃんと言葉にしてあげますね」
――やめて。これ以上、私の心を抉らないで!
ズタズタに傷つけられた心が悲鳴を上げるが、もはや抵抗する術は残されていない。断頭台にのせられている死刑囚にでもなった気分だった。
パリストンはいかにも哀れむような微笑を浮かべ、言葉の刃を振り下ろした。
「僕の中でとっておきは数席しかないんです。貴女を入れる余地など砂粒の欠片ほどもありません」
頭の芯がぐらりと揺れ、手足の力が抜けていく。
私は自分が想像したどのシーンとも現実が異なっていたことを感じて絶望した。それはもう、二度と立ち直れなくなりそうなほど深い絶望だった。
(あぁ、なんて馬鹿なことをしてしまったんだ……)
激しい後悔が胸に押し寄せる。死にたいくらい恥ずかしくて惨めだった。
「僕の返事は以上です。まだ何かありますか?」
尋ねておきながらもパリストンはもう聞く耳を持っていなかった。こちらを見る目が薄い膜が張られたように虚ろになる。彼の世界から締め出されたのだと分かって、ひゅっと息をのんだ。
「先ほどの発言は……どうか、なかったことにしてください」
やっとの思いでそれだけ絞り出して、頭を下げる。
私は奥歯を強く噛んで涙を堪えた。パリストンの前で涙を見せた途端、自分自身の感情の収拾がつかなくなるはわかりきっていた。これ以上惨めな姿は晒したくない。
「次は無いですから」
それだけ言うと、パリストンはデスクに置かれた書類の束を手にとった。
温度の無い瞳が、ふたたびこちらを向くことはなかった。