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欲しがらないよきみだけは


 ――地獄に落ちる覚悟など、もうとっくにできている。


 仕事終わりに呼びつけられた店は、一介の協会職員に過ぎない私の身の丈には到底そぐわない高級レストランだった。
 吹き抜けになった豪奢な空間に、ゆったりとしたスペースをとってテーブルが点在している。テーブルにはキャンドルが灯され、照明は程よく薄暗い。テーブル席を占めていた客の大半が仕立てのいいスーツやドレスをまとった、いかにも上流階級といった感じの男女ばかりだった。そんなスノッブな人種に囲まれてもちっとも引けを取らない男――パリストン=ヒルは、邪気しか感じられない笑みを顔一面に浮かべていた。

「どうですこの店は! 素晴らしいでしょう!」
「ええ、こんな仕事着で来るのが気後れするほど素敵なお店です」

 抑揚のない声色で応じる。こちらの当て擦りにパリストンが気分を害した様子はなく、むしろ嬉しそうに笑った。
 苛立ちを感じながら、椅子の座面を指の腹で意味なく擦る。
 本来この席には、近頃パリストンが懇意にしている資産家の娘が座るはずだった。今朝方相手からキャンセルの連絡がきたとパリストンは大袈裟に嘆いていたが、どこまで本当かは分からない。真偽のほどはどうでもいい。秘書である私がすべきことは、速やかに店にキャンセルの電話を入れることだ。しかし、職務を全うしようとする私を止めたのはパリストンだった。「あの店はなかなか予約が取れない人気店じゃないですか! キャンセルなんて勿体ない!」と散々騒いだ挙句「うーん、背に腹はかえられない! 今夜は貴女で妥協しましょう!」と満面の笑みで言い放ったのだ。死ぬほど行きたくなかったが「これも仕事の一環ですよぉ」と言われてしまえば、部下である私に断るという選択肢は存在しない。

「いやぁ、貴女のような素敵な女性と食事できたんですからドタキャンされるのも悪くないですねぇ! 怪我の功名とでも言うべきでしょうか?」

 パリストンの愛想の良い声が響く。いかにも嘘臭い台詞に、自然と眉間に皺が寄っていくのがわかった。喉元まで迫り上がった悪態を、すんでのところで呑み込む。いちいち相手をするな。無視だ、無視。

 目の前の腹立たしい顔面から視線を外し、テーブルに置かれた細長いグラスをじっと見つめる。
 ――もしも、今この場でグラスを床に叩きつけてその破片で手首を切ってみせたら、少しはこの男も狼狽えるだろうか。
 ふとそんな想像をしてすぐに打ち消した。馬鹿馬鹿しい。そんなことをしてもこいつを動じない。それどころかヒステリックな女の醜態を手を叩きながら大喜びで鑑賞することだろう。この男はそういう人間だ。
 
 気分を落ち着かせようと水を少し飲んだところで、会話が途切れたのを見計らった店員がドリンクの注文を取りに来た。パリストンは私に何を飲むか聞いてからスパークリングワインをオーダーした。その身のこなしも話し方もすべてが洗練されている。嫌味なほどに。

 パリストンは一見すると爽やかな好青年だが、ひとたび口を開けばその得体の知れなさが露呈する。わざとらしい笑顔と発言は人に嫌悪感を与え、何か裏があるのではないかという不安を呼び起こさせ、誰もが彼を敬遠する。パリストンと知り合った頃の私もその一人だった。

 しかし、秘書として傍にいるうちに、彼が意図して人に見せている部分とは異なる一面が見えるようになった。
 それは、空虚さ。
 絶対に満たされることのない、何か。
 悪意に満ちた瞳の奥に見え隠れするがらんどうに気付いたその日から、私のパリストンに向けた感情は変質した。
 ――惹かれてしまったのだ。身の破滅を予感させる悪魔のような男に。


 店員がしずしずと歩み寄り、グラスにワインが注がれる。
 テーブルに落としていた目線を持ち上げると、まともに目が合ってしまった。視線が重なったことを喜ぶかのようにパリストンの目尻が持ち上げられ、作られた笑顔を向けられる。
 真っ黒な瞳が私を見据えている。その黒が、私には自分を永遠に閉じ込める穴ぐらのように思えた。……でも、本当はとっくのとうにその穴蔵から締め出されているのだ。
 私はパリストンから見限られている。愚かとしか言いようがないこの感情を知られてしまったあの日から。


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