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子羊にはなれない


 網膜に焼きつくその黒が、私を狂わせた。

 人の手を離れて久しい廃墟。打放しのコンクリートの壁は所々崩れ落ち、ガラスを失った窓枠は腐食し変色している。気にかけるものなど誰もいないであろう朽ちた空間。その中心に、真新しい椅子がひとつ。まだ年端もいかない少年が座っている。
 少年は後ろ手に縛りつけられており、目元は包帯で乱雑に巻かれている。囚われの身の少年を、私は部屋の隅からじっと眺めていた。

「は……はっ……」

 切れ切れに息を吐き出す。汗が滴り、全身がカタカタと小刻みに震えている。欲しくて欲しくてたまらなかった彼が己の手の内にあるという事実は、私に異常な興奮をもたらした。薬物のように脳細胞を破壊していく。

「あ、あぁ…………」

 瞼を下ろして、彼を思い浮かべる。網膜に焼き付けたその姿を存分に堪能したあと、ゆっくりと目を開く。視線の先に彼がいることを再確認してさらに頭が煮え滾った。彼がいる。彼がいる。彼がいる!全能感に包まれて思わず笑い出していた。

 初めて彼の姿を見た瞬間、まず欲しいと思った。光を通さない黒々とした双眸を、艶やかな黒髪を、白磁を思わせる白い肌を。この美しい少年を自分のものにしたい。誰の目にも触れさせず、自分だけのものに……その歪んだ欲求は、私をいとも簡単に凶行に走らせた。

「く…ろ、ろ」

 口に出すことも烏滸がましいと思っていた名を呼ぶ。しかし喉が貼りついて抗れたような声にしかならない。ようやく、この部屋がひどく乾燥していることに気がついた。きっと彼も喉が渇いているに違いない。妙な使命感に駆られ、鞄から水の入ったペットボトルを取り出して近寄った。距離が縮まるにつれて鼓動が早くなる。ずっと遠くで見ていることしかできなかった。当然、彼は私のことなど知らない。その見ず知らずの女に彼は生死を握られているのだ。

 目の前までやってきて、力なく座る彼を見つめる。薄闇の中、まるで薄い光のヴェールに包まれているようでいやに神々しく見えた。ああ、触れてしまおうか。その肌に、その髪に、彼のすべてに!

「飲ませてくれるのか?」
「ひっ……」

 眼下から聞こえた声に飛び上がらんばかりに驚いた。心臓に冷えた水をかけられた気分だった。
 項垂れていた頭を擡げる。少年は笑っていた。縛り付けられ目隠しされたまま。あまりに不釣り合いなその笑みから目が離せなくなる。

「なんだ、くれるんじゃないのか?」

 その声は異様なほど落ち着いていて、途端にこちらが落ち着かなくなる。絶対的に有利な立場にいるはずなのにどうしてこんなに胸が騒ぐんだろう。

「動けないんだ。飲ませてくれないか?」

 立ち尽くす私を促すような言葉にはっとした。そうだ、彼は動けないんだ。何を臆することがあるんだ。望み通り水を飲ませるため蓋を外そうとするが、手が小刻みに震えるせいで上手くいかない。こちらの動揺を悟った少年が「落ち着けよ」と鼻で笑った。さっきまでの高揚感はもはや見る影もない。

「怖いのか?」

 その一言がきっかけだった。ああ、そうだ。私は、怖いんだ。夢にまでみた彼がおそろしくてたまらない。本物の彼と対峙して、一瞬で理解してしまった。彼が、到底私の手に負える相手じゃないということを。
 始めは、ただ欲しかった。衝動のままに手を伸ばした。でも今は彼の前から逃げ出したくて仕方がない。

 −−もう無理だ。もっと長い間堪能するつもりだったけれどそんな余裕はない。彼の前にいることが耐えきれなくなる前に、目的を果たそう。
 包帯でぐるぐる巻きにされた額に手を当てる。包帯越しにでも彼に触れている事実に恐怖と興奮が綯交ぜになる。丁寧に、丹念に全身のオーラを手繰り寄せていく。彼は微動だにしなかった。鷹揚とした笑みを浮かべたまま私の行為を甘んじて受けている。

「はっ、はあ…………」

 すべてを出し切って、おそるおそる額の包帯に指をかける。ゆるんだ隙間からくっきりと刻まれた十字架が見えて、ぐっと息を呑んだ。途方もない背徳感に襲われる。これは神を冒涜する行いだ。許されるはずがない。
 身を焼く恐怖に耐えきれず、膝から崩れ落ちた。胸の前で手を合わせ、祈りを捧げる。

「どうか、どうか……この愚かな弱い私の罪をお赦しください……」

 懺悔の言葉とともに、涙が頬を伝った。ああ、私の神よ。どうか愚かな私のことなど忘れてください。どうか忘れないで。忘れて。忘れないで。矛盾する思いを抱えたまま、逃げるようにしてその場を後にした。


 彼の額に刻み込んだ十字架は、私の中で膨れ上がった狂気の象徴だった。永遠に手に入れることなど不可能だと分かっていたから、せめて半永久的に残る証を刻みつけたかったんだ。すべてを彼に注いだおかげで、私はすっかり正気を取り戻した。

 彼の前から逃げ出してから長い間、あの光景を思い返しては自責の念に苛まれた。しかし月日が経つにつれて罪の意識は薄れ、記憶の中にある彼はどんどん神格化していった。神は実に慈悲深く、どんな罪を犯しても誠実な心で悔い改めるならば赦してくださる。あの時から十数年経った今、愚かな私はそんな身勝手な妄想で罪から解放された気になっていた。

 
 ――しかし、贖罪の時は何の前触れもなく訪れた。


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