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白夜に迷い込んだ


 少しの間、見知らぬ男を匿っていたことがあった。

 はじまりは冷たい雨が降りしきる夜のこと。その男は突然、私の仕事場である廃墟ビルの一室に現れた。それはもうボロボロな格好で。私の姿を確認した途端、男は綺麗に膝から崩れ落ちた。そして涙ながらにこう訴える。『質の悪い連中に襲われて命からがらここまで逃げ出してきた。どうか少しの間だけでもこちらで匿ってほしい。このままでは殺されてしまう!』悲壮感たっぷりにそう懇願してみせた。
 明らかに怪しいが、特に強そうにも見えなかったので二つ返事で了承した。なにしろその時の私はとにかく暇で暇でしょうがなくて、誰でもいいから話し相手が欲しかったのだ。そんな時にちょうどよく現れたのがこの男。私の返事を聞いた男は、助かった!ありがとう!と大袈裟に感謝してみせた。

 男はやたらと整った顔をしていたが、とにかく存在感が無かった。時折いることを忘れてしまうほどに。これほどまでに影が薄いと色々と苦労してきたのではないかと少し同情する。いや、仕事によっては役に立つのか?例えば暗殺者とか。それとも言動が芝居がかっているから詐欺師だろうか。男の素性を想像しているうちに答えが気になってきて本人に聞いてみたところ「サーカス団の団長をやっている」という答えが返ってきた。絶対に向いてないだろそれ。

 男は助けてもらったお礼に何か力になりたいと言った。ここでやれる事と言ったら仕事しかないが見ず知らずの人間に気軽に手伝わせる内容ではない。私はこの廃墟で、情報屋兼仲介屋を営んでいた。クライアントのほとんどが裏家業の人間。つまり私が扱う仕事は極秘事項の案件ばかりなのだ。仕事はたんまりとあるが、男の目に触れさせる訳にはいかない。そんな内情は打ち明けず、気にしなくていいとだけ言ったが、男はそれではこちらの気が済まないと食い下がった。頑なに手伝うと言い張る男をしばらくは適当にかわしていたが、次第にそれすら面倒になって仕事を振ってやった。特に関与されても問題ないが根気と時間だけはかかる厄介な案件だ。男にはデータを抜き取った仕事用のパソコンを一台だけ与えた。子供のお遊びのようなものだ。形だけでもやれれば満足するだろう。男はありがとう、なるべく早く片付けてみせるよと笑った。そんなにすぐにこなせられるものかと内心で毒づいた。

 だが、私の予想と反して男は驚くべきスピードで仕事を仕上げた。そして軽やかに笑って次の仕事の催促をしてくる。男の有能さに驚くと同時に、得体の知れない不気味さが胸をせり上げた。この男に仕事をふるのはやめておいた方がいい。私の直感がそう訴えていた。仕事はいいから身の回りの片付けをしてほしいと頼んだ。それでも仕事をしたいと迫るのなら追い出してやろうと決めていたが、男はあっさりと了承した。助けになれるのならなんでもいいと男は爽やかに笑ってみせる。その笑顔に、うげ、と胸焼けを起こした。

 男は片付けだけでなく家事もよくこなし、必要最低限の生活用品を床にぶちまけていただけの空間を人が住める環境にまで整えてくれた。加えて、入れるコーヒーが美味い。助かる、と素直な感想を言えば、ナマエの力になれるのが嬉しいと綻ぶように笑った。背筋にぞぞぞと悪寒が走った。

 そうこうしているうちに、男が来てから三日が経とうとしていた。いつまでここにいるつもりなのかと聞いたら、そんな寂しいことを言わないでくれと目を伏せられる。なんともあざとい。思い切り顔を歪めてやるとナマエには通じないんだな、と男は唸った。通じるやついるのかそれ。
 男は取り繕うことをやめたのか、にこりともせずに淡々と話し出した。取り戻したいものがあってそれを人に頼んでいるからそれが終わるまではここに置かせて欲しい、と。なんて他力本願なやつなんだと思ったが、自分ではなく他人を使って物事を為せるのはひとつの才能だなと思い直す。
 男はここに居させてくれるなら謝礼は弾むと言った。そんなものはいらない。家事をしてくれるだけで十分だと言っておく。それは実際のところ真実であったし、なにより謝礼の受け取りようがないのだ。いつもよりも長くひとつの場所に停滞しているから、男が出ていけば仕事場を変えるつもりだった。そうなればもう二度と会うことはないだろう。男はそれでも礼をすると言ってきたが断ると長くなるから無視をした。

 男が来て七日目の朝。コーヒーを入れる手つきも様になってきたなと妙な感慨を覚える。ふと気になって、サーカス団の団員たちは心配してるんじゃないかと聞いてみた。男はきょとんとした顔を見せた後、ああ、その話かと今思い出したような反応を返す。おい。自分で作った設定を忘れてただろう。男は悪びれた様子もなく心配ないと答えた。それより団員が足りていないからナマエが入団しないかと持ちかけられたので、丁重にお断りしておいた。

 終わりは唐突に訪れた。ある日、聞き覚えのない電子音が部屋に響き渡った。男の携帯の着信音だった。その時初めて、男が携帯を所持していたのだと知った。男は電話に出ると「分かった」とだけ言ってすぐに電源を切った。その様子で、取り戻したいと言っていた物の目処がついたのだろうとなんとなく悟った。
 世話になったと男は頭を下げる。世話されていたのは私の方だと思うが何も言わずに別れの挨拶をしておいた。男は「また来るよ。礼もしたいし」と、先日と同じように言ってきたが、それは無理だと教えてやる。新しい仕事場は教えてくれないのかと請われるが情報屋のアジトを簡単に教えられる訳がないときっぱりと断る。これが最後になると念押しすると、男は人を食ったように笑った。そして再び、また会えるよと言ってのける。
 その笑顔に、少しだけカチンときた。まるで、お前の隠れ家などすぐに見つけてみせると言われているようで。私は目を眇めて「じゃあ次はとびきり分かりづらい場所にしてやる。見つけられるものなら見つけてみろ」と言い放った。すると男はひどく面白いものを見つけたかのように目を見開いた。その表情に、ぞわぞわと肌が粟立つのを感じる。もしかしたら、とんでもない奴と関わりを持ってしまったかもしれない。そう一瞬だけ不安になるが、何を馬鹿な事をと思い直した。こんな薄らぼけたやつに何が出来ると言うのか。
 男は「それじゃあ、また」と言い残して去っていった。後に気付いたことだが、この場所に男の痕跡は一切残されていなかった。

 久しぶりに一人になって、そういえば男の名前を聞いていなかったことに今更気が付いた。名も知らぬ男の身元を調べてみようかと思い立ったが、すぐにその気は失せる。もう会わない人間のことを調べてもしょうがない。
 パソコンを開いて、残りの仕事に取りかかった。


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